「プリティ・ウーマン」は現代版「マイフェアレディ」なのか?
「プリティ・ウーマン」は、時に往年の名作「マイフェアレディ」にも例えられます。もちろん、二つとも名作であることに間違いはありません。劇中の出来事だけをかいつまんで言うならば、裕福な男性によって貧しい女性が洗練されていくということであり、そういう点ではこの二つの映画は確かに似ていると言えるかも知れません。しかし、国や時代背景の違いさえ些細に思えるほどの大きな違いがこの二つの映画の間にはあるように思われます。それは、輝きを増していく女性に対して男性がどう変わっていくか、という点なのです。
「マイフェアレディ」のヒギンズ教授は、あくまでイライザの指導者的立場であり、終始イライザを導き、見守る立場にありました。一方で「プリティ・ウーマン」のエドワードは、ヴィヴィアンの成長と共に自らも変わっていきます。むしろ、内面的な成長を促されて、ヴィヴィアンによって逆に洗練され輝きを増したのは本来「プリンス」であるはずのエドワードのほうだったかもしれません。
「プリティ・ウーマン」は一見、裕福な男性に見初められた女性が洗練されていくシンデレラストーリーのようにも思われますが、実は洗練されてより成長していくのは男性の方であり、女性は秘めていたその本質的な魅力の開花によって男性の人間的な成長を促した、とも解することができます。
女性を磨き上げ、洗練するうちに自らも成長し、変わっていく。「プリティ・ウーマン」は男性の成長物語の一面もあるのです。女性がその秘めたるポテンシャルを美しく開花させ、またそのプロセスに関与することで男性が内に秘めた自分の人間性に目覚め、大きく成長していくその男女の人間ドラマである「プリティ・ウーマン」は、単なる女性の幸運の物語ではありません。女性は自分を洗練してくれる男性と出会うことで、一方で男性は洗練すべき女性と出会うことで、お互いが人間的に大きく成長していくのです。
「堕ちきらない」ヴィヴィアンの魅力
娼婦をしていたヴィヴィアンには磨かれて輝きを増していく容姿のポテンシャルの素晴らしさもありましたが、それよりもむしろ元々持っている不思議な人間的魅力、言い換えれば「堕ちきらない」品がありました。エドワードはそのヴィヴィアンの素朴な人間性に魅了されていくのです。
リッチなエドワードに言い寄る女性は星の数ほどいたでしょう。しかも、みな洗練されたエレガントな女性であったはずです。しかし、そこには女性の様々な思惑や駆け引きがあったでしょう。エドワードにしてみれば、しがらみや駆け引きとは無縁で、無邪気に振る舞う陽気なヴィヴィアンは新鮮だったはずです。
それを暗示するのが、ヴィヴィアンとエドワードの最初の一夜のホテルでの場面でした。街の娼婦であったヴィヴィアンですが、エドワードが気まぐれに高級ホテルの一室に招きます。ヴィヴィアンがルームサービスのイチゴを食べた後に、こっそり洗面所でデンタルフロスを使うシーンがありました。洗面所でのドラッグの使用を疑ったエドワードにとっては新鮮な驚きでした。ドラッグの使用を疑って追い出そうとした自分の短慮を詫びながら、不思議そうに新鮮な驚きでヴィヴィアンをじっと見つめるエドワード。
無邪気に笑い、行儀の悪さの中にも天真爛漫さが溢れるヴィヴィアンの振る舞いを、眩しそうに、かつ優しく見守るエドワードのおだやかな眼差し。「仕事」を終えて、ぐっすりと眠るヴィヴィアンの横には、ストレートヘアのブロンドのウィッグが有りました。それを微笑ましげに見守るエドワード。翌朝、恥ずかしげに赤毛のカーリーヘアを掻きながら「Red(赤毛なの)」と恥ずかしそうに言うヴィヴィアンに対して「Better(いいね)」と優しく答えるエドワード。
机の上に座ったり足を投げ出したり大声を上げて笑ったりと、お行儀は決して良いとは言えない一方で、愛すべき天真爛漫さとどこか「堕ちきらない品の良さ」がアンバランスに同居しているヴィヴィアンの不思議な魅力。ヴィヴィアンはエドワードの周囲には居なかったタイプの女性だったことでしょう。この出会いがその後の二人の運命を変えていくのです。
「似たもの同士」の二人
エドワードは、M&A(企業買収)に邁進する冷徹なビジネスマンでした。娼婦のヴィヴィアンに対して自嘲気味にこう言う場面があります。「僕らは似たもの同士だ」。すなわち、ビジネス(お金)のためなら冷酷になれる、割り切れる人間なのだ、ということです。一方、ヴィヴィアンはこう言っています。「決して唇にキスはしない。」つまり、商売相手には体は売っても心は売らない、ということです。
エドワードはビジネス上の付き合いで、エスコートする女性が必要になったためにヴィヴィアンと1週間の同伴契約を結びます。この1週間で、ヴィヴィアンは洗練され、マナーを覚え、ファッショナブルになり、輝きを増していきます。
しかし一方で、ヴィヴィアンと過ごすうちにエドワードの心理にも変化が生じていきます。「あなたは何も生産しないの?会社を買ってバラバラにして売るなんて、車を盗んでパーツを売るみたいなものね。」ヴィヴィアンに言われて「これは合法だ。」と反論するエドワードですが、ヴィヴィアンの本質を突いた鋭い指摘に、ふと考えてしまいます。
ヴィヴィアンは、エドワードが敵対する買収先の会社のオーナーのモノ作りに対する情熱に対して好意を感じ始めており、そのために冷酷になりきれずに悩む姿もまた見抜いてしまいます。「問題は、あなたがミスター・モース(買収先のオーナー)を好きなことだと思うわ。」ヴィヴィアンの洞察力にエドワードの複雑な胸中はあっさり見透かされてしまいます。
ヴィヴィアンは独特の知性と感性、本質を見抜く洞察力を持っていたのです。プライベートジェットで連れ出された初めてのオペラ鑑賞で、ヴィヴィアンは言葉も内容も解らないのに、その演出の素晴らしさや歌、音楽に感激します。オペラを理解するその感性を持ちながら、一方で「(オペラが)良すぎてモレそうだった!」と言い放つその奔放さ。ヴィヴィアンの魅力が全開です。エドワードは、微笑ましく感じながらも、ヴィヴィアンに対して説明しようのない敬意を感じていったように思います。やがて、それが本物の深い愛情に変わっていくのです。
エドワードはヴィヴィアンに少しずつ心を開いていきます。現在の自分の仕事(M&A)に携わることになったきっかけは、母をないがしろにした父に対する復習であったこと、父の会社をバラバラにして売却した時に達成感があったことなどをヴィヴィアンに語っていきます。
父への復讐心は母への思慕の裏返しでもあったのです。すなわち、両親の愛に飢えていたことがエドワードの仕事へのモチベーションになっていた一方で、冷徹すぎるビジネススタイルの根元にもなっていたのです。
おそらく、決して他人には語ることがなかったであろう自らのトラウマを語ることができるほどエドワードはヴィヴィアンを信頼し、心を開いていたのです。それは生涯で初めての経験だったかもしれません。初めてトラウマを人に話すことで、エドワードは少しずつこのトラウマから解放され、人間的に大きく成長していくのです。
手掛けているM&Aの事案の最終局面で、エドワードは方針を転換します。企業を買収した上でバラバラにして売却するのを止め、モノづくりとしての企業の再生を図るのです。この方針転換のビジネス的な視点からの是非はわかりません。しかし、エドワードは今までの自分ではできなかった決断をし、自分のあらたな一面を見せるのです。彼は仕事人としてもその幅を広げ、新しい仕事の展開をしていくことになったのです。
一方でヴィヴィアンも自らの生い立ちを語ります。付き合った男はろくでもない男ばかりだったこと。男を追いかけて来て捨てられて娼婦になったこと。そして、初めて娼婦として仕事をした日はずっと泣き通しだったこと。ヴィヴィアンもまた、過去に大きなトラウマを持つ人間でした。しかし、エドワードによって磨かれ、洗練されていくうちに自分の中で見失っていた自信と勇気、そしてプライドを取り戻していくのです。
過去との決別、そして新たな人生。二人はやはり「似たもの同士」であったのです。二人の間に真の愛情が芽生えたのはもちろんでしょうが、二人はお互いの人生の再出発を促しくれた恩人同士でもあったように思います。
二人が望んだ結末は?
そして、エドワードが望んだ結末は、ヴィヴィアンが望んだ結末はどうだったのでしょうか。エドワードは当初、アパートと高級車を用意してヴィヴィアンを「囲う」ことを考えます。しかし、ヴィヴィアンはこの申し出を毅然と断ります。「おとぎ話の王子様はお姫様にアパートを与えて囲ったりしない」と。ヴィヴィアンと出会って変わったエドワードでしたが、この場面ではまだ決断ができません。やはり最後の一歩を踏み出す勇気がありませんでした。
一方でヴィヴィアンはエドワードに対してはっきりと言います。「以前の私なら喜んでその話に飛びついたと思うわ」。エドワードに対する毅然とした拒絶。ヴィヴィアンのそのプライドは、まさに目の前のエドワードが与えてくれたものだったのです。今度は逆にヴィヴィアンのその毅然とした態度がエドワードの心を揺さぶることになるのです。
ヴィヴィアンに「ふられた」エドワードは一人になって考えます。そして、ついにその一歩を踏み出すのです。ここではホテルの支配人のトンプソンが土壇場でエドワードの背中を押す「いい仕事」をしてくれます。なかなかエドワードに名前を覚えてもらえなかった支配人のトンプソンでしたが、最後にエドワードに、「ありがとう、‘ミスタートンプソン’!」と言われるのがとても印象的でした。
エドワードは、ついに自分の殻を破ります。ヴィヴィアンが望んだものは「おとぎ話」。エドワードはその「おとぎ話」をハッピーエンドで完結させる王子様になる決断をしたのです。
「ハリウッドは夢が叶う街。あなたの夢は何ですか?」という通行人のセリフで終わるこの名作。もう、何も言うことがありません。この映画を締めくくるのに、これ以上の言葉があるでしょうか。
磨く側と磨かれる側、シンデレラと王子様の立場の妙
仕事においては全てを手に入れたと言ってもいいエドワードでしたが、人生において何か物足りなさを感じていました。一方でヴィヴィアンは、非凡な洞察力と感性、愛される天真爛漫さを持ちながら不遇な境遇にあえいでいました。
この映画において、どちらが助けた側でどちらが助けられた側なのでしょうか。当初は明らかにエドワードがヴィヴィアンに救いの手をさしのべました。しかし、ヴィヴィアンがエドワードによって磨かれ、洗練されていくうちに、ヴィヴィアンの様々な魅力によってエドワードの方が人間的な成長を余儀なくされる立場となっていくのです。
この物語は、王子様がシンデレラを見出し、磨き上げた上でプロポーズしたという単純な話ではありません。むしろ王子様になりきれていなかったのは男性の方なのです。王子様になりきれない男性がシンデレラの素養をもった女性と出会い、本物のシンデレラとなるよう磨き上げるうちに、シンデレラの魅力によって今度は男性が本物の王子様に成長していく話なのです。プリティ・ウーマンはそのタイトルとはうらはらに、そのような一面、すなわち女性が男性を磨き上げ、成長させる物語の一面を持った映画であると言えるかもしれません。