美しい世界の解釈

まずは何より目を奪われる美しさ

 トム・フォードが監督というだけあって、映画という作品でありながら、どのシーンを切り取っても一流の絵画になるというのがこの作品の特徴でもあるわけですが、その美しさが逆に底知れない不穏な雰囲気を感じさせます。

 特に冒頭に流れる映像の衝撃たるや。美しさに限らず、我々人間は自分のキャパシティを超えるものに出会うと恐怖を感じるものです。ノクターナル・アニマルズの内容を全く知らない人が映画を見ても、この作品の根底に流れる恐怖や不安といったものを感じられるのではないでしょうか。

手抜きのない衣装と空間

 ハイブランドが集まるファッションショーを見ると、「えっ、こんな服普段着られないでしょ」という感想を抱くことがしばしばあります。普段着ることのない服は非日常を感じられますね。この作品は、普段私たちが接するファッションや生活空間というものとは少し異なるものが多いです。日常ではない時間を味わうことは映画の醍醐味でもありますが、ただ日常から離れればいいというわけでもありません。

 アートディレクターとして活躍するスーザンの仕事内容や日常は、セレブとして私たちが憧れる世界でもあります。その中で展開されるエドワードの小説の世界。日常を感じられる小説の世界とセレブな現実の世界が交錯することで、この作品がただのセレブ生活を描く映画でないことを、私たちは身を持って実感するのです。
 美しいからこそ感じられる不穏な空気。言葉では表現できない、得も言われぬ空気感は、映画を見た人にしか伝わりません。

交わるはずのない世界の解釈

現実なのか、小説なのか

 エドワードの書く小説は衝撃的な内容でした。リアルで目を覆いたくなるような、まるで実際に体験したような鬼気迫る内容。スーザンが目を閉じてため息を吐く気持ちもわかります。もしこれが本当にあった出来事ならば、あまりの悲惨な事件に大々的に報道されることでしょう。

 しかし、これは本当にフィクションなのでしょうか。今まで書いてきたものとは全く異なる小説を、エドワードはどうして書くことができたのでしょうか。
 もしかしたらエドワードが現実に体験した出来事なのかもしれない。だとすればあまりに可哀相。現実に起こったこととは考えたくない、考えられないスーザンはフィクションとして小説を読み進め、私たち視聴者もフィクションの世界だと思って見ています。
 真実は誰にもわかりません。それこそ、見る人によって捉え方は変わってくるでしょう。

夜の獣たち

 トニーを襲った出来事は悲劇という他ありません。トニーの悲しみや怒り、無力感といったものは膨大で、想像するだけでも心が痛みます。
 この小説には『夜の獣たち』というタイトルが付けられていますが、獣たちとは誰のことを指しているのでしょうか。トニーたちを襲った暴漢たちか、犯人を追う警官とトニーのことか。様々な可能性が考えられますが、ひとつの答えとして、夜の獣たちというのはトニーの感情のことではないかと私は思うのです。

暴れまわる獣のようにトニーの感情は乱れ、そして獲物を狙うときは息を殺して感情を潜めます。まさに獣と呼ぶに相応しいものです。そして最後は草むらの中で、動物のように倒れていく……トニーがこれまでどのような人生を歩んできたのかはわかりません。ですがあの夜、あの事件を追う間の彼は、まぎれもなく獣のような感情と執念を持っていました。

 『獣たち』という複数形は、めまぐるしく変化するトニーの感情です。暴漢たちに襲われる恐怖、家族への心配、暗闇に放り出されてしまった不安、犯人に対する怒り、余命短い警官に対する同情、無残な姿になってしまった家族への悲しみ、己への無力感、犯人を捕まえて嬉しいはずなのに心の底で感じる虚しさ、そして虚無。
 獣のように激しく生き、求め、そして獣のように散ったのが、トニーという夫、父親、男です。

「妻への復讐」の解釈

彼を豹変させたもの

 作品を見る限り、エドワードは優しい人物のように思えます。そのエドワードがこんな復讐をするほど、スーザンは彼にひどい仕打ちをしたということです。それもただの復讐ではありません。自分の作品を読ませ、世界に引き込むという尋常ではない手段を用いたのです。きっと、スーザンは最後の最後までこれがエドワードの復讐だとは思っていなかったでしょう。それこそが彼の復讐だと私は思うのですが、これを優しいと感じるかひどいと感じるかは、この映画を見る人が経験してきた人生による部分が大きいかと思います。

 私はとてつもなく酷い復讐に感じました。なぜならスーザンはアートディレクター。感性を大事にする仕事をしているからです。彼女の感情を大きく乱し、日常を侵食するほどの小説を書いて送りつけたエドワードは、その行為自体がもう彼の復讐なのです。会う約束をしたにも関わらず彼が現れなかったのは、あくまで彼女にこれが復讐であることを気付かせるため。スーザンが彼の小説を読み始めた時点で、彼の復讐は始まり完結していたのです。

エドワードが現れなかった本当の理由

 さきほど、スーザンとの約束に姿を現さなかったのは、これが彼女に対する自分の復讐であることを気付かせるため、と述べましたが、彼が現れなかった本当の理由はもうひとつ考えられます。それはもうエドワードがこの世にいないから、というものです。
 フィクションだと思っていた彼の小説、『夜の獣たち』は、実は彼の実体験だった、という可能性です。彼が実際に体験した出来事だからこそ、あんなにリアルで読者の感情を揺さぶるものが書けたのではないでしょうか。そう考えると、彼がスーザンとの約束の場に姿を現さなかった理由にも納得がいきます。

 小説の中のトニーはエドワードで、奪われた家族は彼がスーザンと別れたあとに築き上げたもの……そんな風に考えてもう一度作品を見直すと、ゾッとするほどの恐怖が全身に走ります。
 もしあの小説がエドワードの実体験であるなら、彼は自分の命が尽きる瞬間を事前に書いていたことになりますし、彼がもうこの世に居ないため、事実がどうなのかは誰にもわかりません。

命の復讐

 きっとエドワードは、自分の小説を読んだスーザンが会いたがることを予想していたのでしょう。自分が死んだらこうしてくれ、スーザンから連絡が来たらこうしてくれと、誰かに頼んでいたのかもしれません。もちろん、スーザンはそんなこと知りもしないわけですから、エドワードが来なくても「これが彼の復讐か」と思うだけに終わります。もしかしたらそのうちエドワードの死を知るかもしれませんが、今はただレストランで一人きりの時間を過ごすだけです。
 元夫の死を知らされないことがスーザンへの罰。そんな捉え方もできますね。とにかく、エドワードの命をかけた復讐は見事成功したと言えます。

さいごに

 私はこんなにも恐ろしく、そして美しい復讐があるなんて知りませんでした。非現実的なようでいて、とても現実的な復讐、そして映画です。ただのエンターテインメントで片付けるにはもったいない作品だと思います。スーザンの立場では後味の悪い、しかしエドワードの立場では爽快感すら得られる内容でした。

 映画のタイトルは作中の小説と同じ意味ですが、夜という時間帯が持つ神秘的な未知と恐怖のイメージ、そして獣という荒々しくも静かなイメージが重なり、タイトルからも美しさを感じられます。本当に美しい映画です。
 色んな立場や考え方を持って映画を見直せば、きっとまた新たな真実が見えてくるでしょう。

参考になる「ノクターナル・アニマルズ」解釈ページ

この映画をもっと深く解釈したい人は、以下のサイトをご覧ください。

「ノクターナル・アニマルズ」 ラストが”復讐”ではないとしたら

映画『ノクターナルアニマルズ』解説 と考察。ラストに向かうミスリード意味とは

【ネタバレあり】『ノクターナルアニマルズ』解説・考察:トムフォード流西部劇が描いたのは愛か復讐か?