1.配信オリジナル作品を〈映画〉として認めさせた
『ROMA』は、『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』『トゥモロー・ワールド』『ゼロ・グラビティ』などで名を上げたアルフォンソ・キュアロン監督の2018年作品。SFやファンタジーを題材にテクニカルな作品を作るイメージが強かったキュアロンが、過去のメキシコシティを舞台に自伝的な内容をモノクロ映像で描いた意外な作品だが、その芸術的完成度は際だったもので、批評家からもファンからも絶賛された。
だが、作品のクオリティもさることながら、この作品が大きな話題を呼んだのは、Netflixオリジナル映画として製作された作品なので、Netflixでのみ配信され、劇場公開の予定は無いと発表されたためだ。
もちろんNetflixオリジナル映画は本作以前にもあったし、カンヌ国際映画祭でコンペティション部門に出品されたポン・ジュノ監督の『オクジャ』や、コーエン兄弟の『バスターのバラード』など、有名監督による作品もあった。しかし本作は、配信開始以前にヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞しており、その作品が劇場公開されないということで大きな波紋を呼んだ。これが、以前から問題になっていた「Netflixなどの配信系オリジナル作品は映画として認めるべきなのか?」という問題を一挙に燃え上がらせることになる。
アカデミー賞候補の資格を得る目的に加え、やはり劇場公開を切望する声を無視しきれなかったのだろう。結局『ROMA』はアメリカでも日本でも小規模ながら劇場公開されることになった。そしてアメリカでは2018年度最多のアカデミー賞10部門にノミネートされ、外国語映画賞・監督賞・撮影賞の3部門を受賞した。キュアロンの監督賞受賞は『ゼロ・グラビティ』に続き2度目。それに加え、監督自ら手がけた撮影でも同時受賞。アカデミー賞で同じ人物が監督賞と撮影賞を受賞するのは史上初の快挙だ。
本作の成功により、Netflixオリジナルでも特に質の高い作品は、小規模な劇場公開を行ってアカデミー賞候補の資格を得る傾向が続くことになる。2019年にはマーティン・スコセッシ監督の大作『アイリッシュマン』、ノア・バームバック監督の『マリッジ・ストーリー』、フェルナンド・メイレレス監督の『2人のローマ教皇』などが劇場公開されている。この3作はどれもゴールデングローブ賞の作品賞候補となっているので、当然アカデミー賞にも絡んでくるだろう。またニューヨークでは、閉館が決まっていた老舗の映画館がNetflix作品専用の劇場に生まれ変わったという。
アメリカ映画界の重鎮マーティン・スコセッシがNetflix側についたこともあり、もはや「配信オリジナル作品は映画なのか?」という問題には、解答が出つつあるようだ(そのスコセッシが今度は「アメコミものは映画じゃない」などと言って騒動を引き起こしているのはいかがなものかと思うが、それはまた別の話)。ともあれ本作は、作品の質のみならず、配信オリジナル作品と劇場映画の垣根を壊すのに決定的な役割を果たしたことで、映画史を変えたマイルストーンになったと言える。
2.劇場で見てもパソコンモニターで見ても楽しめる
かく言う筆者は、配信が始まった2018年末にNetflixで1回、その後 の劇場公開時には、イオンシネマ シアタス調布の中規模スクリーン(198席)である7番で1回、さらに都内屈指の映写環境を誇る10番スクリーン(530席/ULTIRAスクリーン)にかかったのでもう1回と、計3回違う環境で見ている。そしてNetflix(パソコン用23インチモニター+外部スピーカー)で見ても、最高の劇場(ULTIRAスクリーン)で見ても、同じように楽しめることに驚いた。
まず、上映環境としてシアタス調布のULTIRAスクリーンは完璧だ。映像の美しさもさることながら、音響が素晴らしい。特に地震のシーンでは、もう3度目の鑑賞なのに「これ、もしや本当の地震と重なってないか?」という恐怖を覚えた。それくらいリアルな音響設計だ。Netflixの作品であるにもかかわらず、明らかに劇場向きに作られているので、どうせ見るなら出来るだけ音の良い劇場で見た方がいい。
ではパソコンモニターで見ると感動が激減するかというと、そんなことがないのが興味深い点だ。この映画は、1970年という近過去を舞台にモノクロ映像でつづられた作品だが、意外にもフィルムは全く使われていない。6Kのデジタルカメラ(ALEXA 65)でカラー撮影してポストプロダクションでモノクロ変換された、デジタルネイティヴな作品だ。そのせいもあってか、23インチのモニターでも細部までごく自然に見られるし、暗部が潰れるようなこともほとんどない。
あのリアリティ溢れる音響だけは一般家庭では再現不可能なので、見られる機会があれば劇場で見た方が良いと思う。しかし本作は、「映画はやはり劇場で見るべきものだ」ではなく、「今の時代に求められているのは、劇場で見てもパソコンモニターで見ても良い映画なのだ」ということを強く納得させてくれた。これがフィルム時代の名作ではなかなかそうはいかず、「映画はやはり劇場で見るべきもの」という結論に落ち着きがち。その点でも、本作は映画新時代の幕開けを印象づけている。
3.長回し撮影が生み出す当事者性
内容は、1970年のメキシコシティに暮らす一家の物語。アルフォンソ・キュアロンの子ども時代の思い出に基づく自伝的内容だが、主役は家政婦のクレオ。彼女が不実な男と関係を結んで妊娠するが、男に捨てられ、子どもも死産に終わる。それがドラマチックな核となる物語だが、メインストーリーは、そんな彼女を支える雇い主一家との関係性の方。キュアロンの家政婦(乳母)に対する深い愛情が感じられる作品となっている。
しかし子ども時代の思い出を基にしているため、日常的なスケッチが多くを占める。緻密なストーリーや骨太なテーマ性は見られない。特に前半は不要に思えるシーンも多く、少し退屈する部分もある。だが後半になると、そんな日常的スケッチが素直に胸に染みるようになってくる。特にクレオの妊娠が発覚し物語の焦点が彼女に絞られて以後は、画面から目が離せなくなる。
それは本作が「体験映画」としての強度を備えているからだ。キュアロンは元々長回しが好きな監督で、『トゥモロー・ワールド』や『ゼロ・グラビティ』でも驚異的なワンシーンワンショットが評判を呼んだ。特に本作の長回しは、観客に強い当事者性を与える効果があり、1970年のメキシコシティに入り込んで、クレオと日常生活を共にしているような感覚を覚えさせる。たとえば映画館で男がトイレに行ったまま戻ってこないシーンでは、次々と帰っていく観客の中で取り残された不安な気分をクレオと共有する。クレオの出産から赤ちゃんとの別れまでを捉えた長いワンショットは、淡々と事実だけを記述したような描写なのに、我が事のような悲しみと虚しさで心がいっぱいになる。 溺れそうになった子どもたちをクレオが救う海岸のシーンは、カットを一切割らないことから生じる異様な緊迫感と、全ての悲しみが浄化されていくような美しさに満ちた、本作の白眉だ。普通あの場面を逆光で撮ろうなどとは思いもよらないものだが、その大胆な演出が驚異的な美しさを生み出している。
4.近過去を描く最新のテクノロジー
そのような驚くべき映像を可能にしたものは、最新のデジタルテクノロジーだ。1970年のメキシコを舞台にしたモノクロ作品で、SFでもスペクタクルでもないため、ローテクな低予算映画のような錯覚をしそうだが、とんでもない。実はこれはハイテクの塊のような作品だ。見返すたびに「これはどうやって撮影したのだろう」と頭をひねるところが次々と出てくる。先述の通り音響設計も驚異的だ。
たとえば飛行機が絶妙なタイミングで空を横切るショットが何度も出てくる。「よくこんな見事なタイミングで飛行機をとらえることができたな」などと思っていたのだが、「今は飛んでいないプロペラ機の音を入手するのに苦労した」という裏話を聞いて、あの飛行機は全てCGだったことに気がついた。考えてみれば、ほぼ半世紀近く前の物語なので、メキシコシティの街も様変わりしているに決まっている。ごく自然に見える画面のあちこちにCG処理がなされ、1970年の情景に描き変えられているのは当然だ。最初に見た時は、映画館のシーンで「ああ、いかにも昔の映画館。そうそう、昔の映画館って何故か彫像とかが置いてあったよな…」などと思ったが、冷静に考えてみれば、あの劇場もCGで描かれたものだろう。こういったVFX処理は、カラー映画ならすぐに気づくのだが、モノクロ画面で見せられると、そこにあるものをリアルに撮影しているように錯覚してしまうマジック。
最新のVFXを使って古い時代を蘇らせた作品は数多いが、いかにもな歴史スペクタクルではなく、一般庶民の生活をレトロなタッチで描き出した作品として、これに勝るものはないだろう。 この点でも本作は映画史に名を残すものとなっている。
5.「水」の映画
もう1つ演出面での大きな特徴は、「水」を象徴的に使っていることだ。オープニングからして水鏡。その後も掃除や洗い場などで繰り返し水が登場し、クレオの破水や海岸での救出劇など、印象的なシーンのほとんどで水が重要な要素を占めている。
それらの水は「女性的なるもの」を象徴し、ネガティヴなものを洗い流す働きをしているように思えた。一方クレオを捨てたクソマッチョ、フェルナンの道場は、汚い泥道を抜けた先の乾いた場所にある。クレオの周りにある「流れ続ける水」とは対称的だ。これは、汚れたものを洗い流していく水と、ツラい思いをしながらもそれに代わる喜びを手に入れていくクレオの生き方を重ね合わせる狙いだろう。オープニングは床の水(実は犬のウンコを洗い流すためのもの)を俯瞰で写し、そこに飛行機が映りこむのに対し、ラストはクレオが入っていた部屋を仰角で写し、その向こうに広がる空を飛行機が横切っていく。開放的な映像によって希望を感じさせる、見事な演出だ。技術的な部分に目が行きがちな作品だが、あの海岸のシーンからラストにかけて奏でられる温かい人生賛歌によって、本作は真の名作となりえている。