映画「運び屋」は日本で神格化されたクリント・イーストウッド作品

2018年、ジャパンタイムズ紙に、「日本の映画批評家はなぜこんなにもクリント・イーストウッドが好きなのか」といった内容の記事が掲載され、一部で話題になった。

外国人が驚くのも無理はない。それほどまでに日本の映画批評家はイーストウッドを神格化している。一番分かりやすい例が、歴史あるキネマ旬報ベストテンだ。イーストウッド監督作は、この四半世紀に何と8回もベストワンを獲得しているのだ。

1993年 『許されざる者』
2000年 『スペース・カウボーイ』
2004年 『ミスティック・リバー』
2005年 『ミリオンダラー・ベイビー』
2006年 『父親たちの星条旗』
2009年 『グラン・トリノ』
2014年 『ジャージー・ボーイズ』
2016年 『ハドソン川の奇跡』

8回のベストワン獲得…これはフェデリコ・フェリーニもイングマル・ベルイマンもルキノ・ヴィスコンティもジョン・フォードもチャールズ・チャップリンもアルフレッド・ヒッチコックも遠く及ばない快挙である。日本では黒澤明や小津安二郎などを凌ぎ、今井正が最多ベストワンホルダーだが、それでも5回だ。ベストテン選出者の人数が大幅に増え、映画批評が本業では無い人の数が増えるといった変化も大きく影響しているので、昔の名監督たちと同一に論じること自体問題があるのだが、それでも記録上イーストウッドがダントツの最多ベストワンホルダーであることに変わりは無い。

しかもベストテン圏内にまで目を向けると、以下のような状況だ。

『マディソン郡の橋』(1995年/第3位)
『硫黄島からの手紙』(2006年/第2位)
『チェンジリング』(2009年/第3位)
『インビクタス 負けざる者たち』(2010年/第2位)
『ヒアアフター』(2011年/第8位)
『J・エドガー』(2012年/第9位)
『アメリカン・スナイパー』(2015年/第2位)
『15時17分、パリ行き』(2018年/第6位)

25年間で実に18本の作品をベストテンに送り込んでいる。逆に言えば『許されざる者』以降の監督作でベストテン入りしなかった作品は『パーフェクトワールド』(1993年)『真夜中のサバナ』(1997年)『目撃』(1997年)『トゥルー・クライム』(1999年)『ブラッドワーク』(2002年)の5本のみ。真の快進撃が始まる2000年以降で言えば、『ブラッドワーク』1本を除き、全てベストテン入りしているということだ。
このようなキネマ旬報ベストテンの結果を基準に考えるなら、イーストウッドこそ映画史上最高の名監督ということで間違いないだろう。

評価されすぎた映画?

さすがにここまで来ると素朴な疑問が湧いてくる。もちろんイーストウッドが優れた監督であることは疑いようがないが、この状況はいくら何でも神格化が過ぎはしまいか? 
00年代に放った作品群が神がかっていたことは疑いようが無い。『ミスティック・リバー』や『ミリオンダラー・ベイビー』がベストワンに選ばれるのは当然だし、2009年の『チェンジリング』こそ、同年公開の『グラン・トリノ』以上にベストワンに選出されるべき大傑作だと思っている。
しかし2000年という節目の年に、肩の力が抜けた娯楽作である『スペース・カウボーイ』がベストワンに選ばれたときには、さすがに愕然とした。『ジャージー・ボーイズ』は個人的には大好きな作品なので、あまり悪く言いたくないが、これがベストワンであることに異議を唱える人の気持ちもよく分かる。
そして『ハドソン川の奇跡』が再びベストワンに選ばれたときには、もはや暗澹たる思いにとらわれた。せいぜい佳作レベルの『ハドソン川の奇跡』が2016年を代表する映画? 確かにこの年は、2位が『キャロル』3位が『ブリッジ・オブ・スパイ』と洋画勢はかなり小粒で決定的な作品は無かった。それにしても、この結果は日本の映画批評が(少なくとも批評誌としてのキネマ旬報の役割が)機能不全に陥っている証しとしか思えなかった。
さすがにベストワンには選ばれなかったが、『15時17分、パリ行き』は海外ではむしろ酷評された作品。その作品さえ、日本では好評を持って迎えられたことが、先述のジャパンタイムズの記事のモチーフにもなっている。

この状況に大きな影響を与えているのは、言うまでもなく蓮實重彦だ。多くの人がイーストウッドをマカロニウエスタンや『ダーティー・ハリー』のアクションスターとしか見ていなかった時代から、彼はイーストウッド監督作の作家性を高く評価していた。2000年以降にイーストウッドの神格化が始まったのは、1980年代から90年代にかけて蓮實が映画批評の世界で絶大な影響力を持ち、その薫陶を受けた人々がベストテンの選出に加わるようになったためだろう。また蓮實が1997年に東大総長というアカデミズムの世俗的頂点に立ったことも無視できない。要は蓮實重彦の批評基準が、強力無比な権威となって日本の映画批評界を席巻したのだ。嫌な言い方をすれば、「蓮實先生の基準にしたがっていれば、表立って文句は言われない」という状況が形作られた。ちょうどそんな時期にイーストウッドの作家的ピークが重なったため、手がつけられないイーストウッドインフレが始まったわけだ。

実話をもとに10年ぶりの監督・主演作登場

そんな状況が続いたため、最近のイーストウッド作品に対しては、かなりシニカルな姿勢で接するようになっていた。もちろん駄作は1本も無く、最低でも佳作以上なのだが(『15時17分、パリ行き』も実は意外と面白い)、それがまた批評家に過大評価されベストワンに選ばれたりするかと思うと、一歩引いた気持ちになるのも無理はない。

だから2019年の始めに公開された『運び屋』にも特に期待は抱かなかった。予告編を見ても特にピンと来るものは感じず、「老いさらばえたイーストウッドがもはやE.T.にしか見えない」と思うのみ。10年ぶりに主演も務めているが、『グラン・トリノ』で俳優としては見事なピリオドを打っただけに、今さら何をやっても蛇足になるだけではないかと思った。

ところが驚いたことに、これが見事な傑作だった。イーストウッド作品の中でもかなり上位に入るし、老人映画(?)としても歴代屈指の名作。88歳の老巨匠は、勝算も無しに新たな監督・主演作を撮ったわけではなかった。これには感服する他なかった。ここまで書いてきた日本の批評フィールドの問題は踏まえつつ、あえてこう言おう。「やはりイーストウッドは凄い」。

実話にもとづく、イーストウッドの最もプライベートな映画

家庭を顧みず仕事一筋に生きてきた90歳の老人アール・ストーン。花農場の経営に行き詰まり、藁にもすがる思いで引き受けた仕事がコカインの運び屋。金が必要でずるずると仕事を続けるうちに、カルテル内で評価が高まりボスにも気に入られる。だが昔気質のボスが殺され、冷酷な人物が新たにボスの座に座ると、それまでの大らかな空気は一変し、アールも引き返せない泥沼にはまっていく…という物語。
  
実話を基にした作品だが、脚本は完全にイーストウッドへの当て書きで、彼以外の誰がやっても、ここまでの説得力は持ちえまい。自分に愛想を尽かした家族への懺悔に満ちた本作には、イーストウッドの個人的心情が強く反映されているように見えるからだ。本作は、彼のフィルモグラフィ中、最もプライベートな作品と言えるかもしれない。
イーストウッドは、結婚離婚こそ2回だけとハリウッドスターとしては控えめな方だが(笑)、古くからの映画ファンなら『アウトロー』『ガントレット』などで共演したソンドラ・ロックと泥沼の愛憎劇を演じたことを鮮烈に覚えているだろう。彼女だけでなく、6人の女性との間に(もう一度言うが妻は2人だ)8人の子どもがいるという話で、どう考えても「良き家庭人」とは言い難い。しかしこの映画の主人公同様、歳を取り、世を去る時期が迫ってきた時、自分が傷つけた者たちに対する悔恨の情が湧いてきたのだろう。
奇しくもソンドラ・ロックは、2018年11月に74歳で死去。その翌月にこの映画はアメリカで公開されている。タイミング的に映画の製作プロセスに直接の影響があったとは考えにくいが、死因は乳がんと骨肉腫だというから、彼女の病気がイーストウッドの視野に入っていた可能性もゼロではない。まあ彼女は最後までイーストウッドを許すことはなかっただろうし、いずれにせよ映画を見る前に世を去ったわけだが…

この映画の評価に関わる問題点

ただ「家族に対する懺悔」という点では、ずいぶんと虫のいいところも多い。家族から見捨てられるほどの過去は、はたしてこの程度のことで許されるものなのか。何だかんだ言いながら、かつてのやんちゃだった自分を肯定しているようなところも見受けられる。思索や言葉よりも行動によって心理を描くイーストウッド映画の手法は、深い反省の思いを描くにはあまり向いていない。
虫がいい部分はもう1つある。主人公はコカインの運び屋として少なからぬ人々の死に間接的に手を貸したわけだが、その罪については一切触れられない。孫娘の学資を援助したことで、家族との和解が大きく進むのだが、そのお金はもちろん運び屋稼業で手に入れたものだ。倫理的に言えばずいぶんと問題がある。
日本よりもずっとドラッグ禍が深刻なアメリカ本国で、あまり高い評価が得られなかったのも、そのような点が嫌われたためではなかろうか。またイーストウッドの愛憎劇が日本以上に一般的に知られていた上に、公開の1か月前にソンドラ・ロックが亡くなるというタイミングで、2つの虫の良さがよけい目立ってしまったのだろう。

しかしそんな私的要素満載の作品だからこそ、逆にイーストウッド映画の核となる部分が見えてきて、それが本作をより興味深いものにしている。

イーストウッド映画におけるモラルへの評価

イーストウッド映画の核とは何か? 1つ確実に上げられる要素が「因果応報」だ。もう少し具体的に言えば、「他人を殺した者は自分も殺される。もしくはその後の人生を修羅として送ることになる」というもの。
形だけ見れば勧善懲悪や正義といった概念と似ているが、少し違う。必ずしも善が悪を滅ぼすわけではない(むしろ悪に滅ぼされる善も多い)。そうではなく、悪はいずれ他の悪によって滅ぼされるか、自滅する。「悪を滅ぼすものは悪」ということだ。この傾向は多くの作品に見られるが、特に『許されざる者』『ミスティック・リバー』『父親たちの星条旗』『アメリカン・スナイパー』など、殺人が重要なモチーフになる作品において顕著だ。

この作品においても、悪に手を染めた登場人物は因果応報から逃れられない。麻薬カルテルのメンバーは、新しく組織を牛耳ったボスに支配され、アールに目を掛けてくれたボスや、監視役だったサルは殺されてしまう。アール自身も逮捕され、自らの罪を認めて残りの人生を刑務所で過ごすことになる。直接は描かれないが、もはやカルテルのメンバーをかばう理由もない以上、おそらくアールの供述で多くのメンバーが逮捕されたのではないかと思える。
アールは、運び屋として稼いだ金の多くを、周りの人々を幸せにし、自分が心安らげる居場所を作るために使った。しかしそれが見知らぬ人々の死に間接的に関与するものであり、厳しい見方をすれば「自分の幸福のために、見知らぬ他人の幸福を犠牲にした」ものである以上、末路は決して明るいものとはなりえない。彼もそれを自覚しているからこそ、全ての罪を認め、家族や友人に囲まれた娑婆ではなく、刑務所で人生を終えることを受け入れる。本作の場合、主人公に裁きを与えるのが銃弾ではなく司法であるため「悪を滅ぼすものは悪」という基本構造が見えにくくなっているが、逮捕と裁判は結果に過ぎない。カルテルの権力構造が変わった時点でアールの破滅は決まっていたのであり、悪は別の悪によって滅ぼされたのだ。
イーストウッドの映画に、平和主義はない。悪はこの世に厳然と存在する。それに抗するために銃を持って敵を殺すことも否定しない。否定はしないが、人を殺したとき、自らもまた悪となり、何らかの形で滅ぼされる(または自滅するか修羅として生きる他なくなる)ことを覚悟しなくてはならない…それがイーストウッド映画における独特のモラルだ。

有終の美を飾った映画

「家族への懺悔」に「悪の因果応報」…何やら重苦しいテーマだが、その佇まいはシリアスな芸術作品といった趣ではない。むしろまったく逆だ。特に前半は、昔のプログラムピクチャーのような大胆な省略とアバウトな展開に驚かされる。その軽快なタッチが、近年のイーストウッド作品に見られない瑞々しさを生み出している。
イケイケな前半から一転、後半は沈痛な展開になるのだが、それでも描写の軽快さは失われない。むしろ深刻な内容を軽快に語るところに痛切な情感がにじみ出る。孤独な老人が自らの居場所を求めて悪事に手を染めるというストーリーや、家族への懺悔といった自伝的要素も含め、これはイーストウッド史上 最も「エモい」作品と言えるかもしれない。 家族との関係は修復したものの、塀の中で生涯を終えることになるであろうアール。そんな彼が、刑務所の片隅で最大の生き甲斐だった花を作り続けるラストは、『グラン・トリノ』以上に完璧なものに思える。 

年齢的に、まだあと1~2作は映画を作れるかもしれないが、個人的にはこの作品を最後にしてくれても一向に構わない。特に俳優としては、さすがにもうこれ以上は蛇足になるとしか思えない。それほどまでに完璧な「有終の美」を飾った映画である。 

映画「運び屋」評価について追伸

この文章は公開当時に書いたものを全面的に書き直したもので、その時はかなりの確率で本作がイーストウッド最後の映画になると思っていた。ところが2019年12月、早くもイーストウッドの新しい監督作がアメリカで公開された。アトランタ・オリンピックで爆発物を見つけて多くの人の命を救ったにもかかわらず、容疑者ととみなされた警備員の姿を描く『リチャード・ジュエル』だ。『ハドソン川の奇跡』に似た感じのストーリーだが、これがアメリカでは、近年のイーストウッド作品としては突出して高い評価を得ているのだ! クリント・イーストウッドは今89歳。映画史上類を見ない化け物である。

参考になるサイト

さらに深く映画「運び屋」について知りたい人には、以下のサイトが参考になるだろう。

運び屋 : 作品情報 – 映画.com

運び屋 – 作品 – Yahoo!映画

【解説レビュー】世界はイーストウッドに『運び屋』を「撮らせてしまった」 ─ 『グラン・トリノ』10年ぶりの監督・主演映画を分析する