こんにちは!Kimikoです。
大人気の新海誠監督の映画『天気の子』を見た5人のライターさんたちに、感想文を書いてみてもらったよ!

それではどうぞ。

「天気の子」の感想&考察5選!

天気の子の終わりは何が正解だったのか、今一度考えてみました。

まず第一に、天気の子を観終えた感想としてはどうにもすっきりした気持ちにはなれませんでした。
というのも、同監督の前作『君の名は』はある種王道のストーリー展開をし、その結果世間一般的に受け入れられ大ヒットとなったと考えています。
本作では、主人公の陽菜の環境がまず悲惨な描かれ方をしており、それとリンクするかの様に日常的に雨が降り続いているシーンが描かれている。

実際、「空と繋がった」との陽菜のセリフはこのリンクしている空模様のことを指しているのだろうと考えています。
そんな中、ストーリーが進むにつれて陽菜は晴れ間を生み出すことで代償として世界から消えていく、という展開がどこか悲しく物憂げな作品として自分の中での位置づけを決定付けました。
結果として、陽菜と穂高の意思により日常的に雨が降り続ける世界となる展開はとても王道とは言えないストーリー展開で観終えた後には冒頭で挙げたなんともすっきりしない気持ちでした。

しかし、家に着き今一度どういうことだったのかを思い出しながら考えた結果、あの終わり方が正解だった気がしてきました。
というのも、自分の中で何を優先させるのかというのは人それぞれであり、
世界よりも陽菜・穂高の互いの存在を優先したというのはある種人間味があるのではないかと思ったからです。
自分ならばどうしただろう、そんな事を考えながら二度目の映画館に向かいました。
心の中ですっきりとしなかったあの気持ちは、今では晴れ間が覗いています。

現代の日本を皮肉にも希望的にもよく表していた

ここのところ地球温暖化により、自然災害がとても多い世界になってきています。日本も台風や河川の氾濫で大変な被害を受けています。なので、作中の雨ばかりの天候というものにも違和感はありませんでした。また天気にここまで人々が翻弄されるさまが滑稽でもあり、客観的に見ればその通りで妙に説得力もありました。

登場人物の境遇は友人は有り得ないと言っていましたが、今の日本で無いとは言い切れないと私は思います。もちろん家出など帆高の家族にとってはとんでもない話です。陽菜と凪の境遇についてもあっては欲しくないです。でもこの世の中自分さえ、または自分の知っている人さえ良ければ他はどうでもいいという風潮も少なからずあります。隣に誰が住んでいるかもわからない、繋がりの希薄な関りも少ない社会に日本はなっていると。それを陽菜が人柱として消え、天気が回復した場面に強烈に感じました。知らないことなのでしょうがないそう言い切ってしまえばそれまでですが、単純に寂しく思いました。

だからこそ情報が溢れている今、自分で何を選び何を信じるかがとても重要だとも感じます。この瞬間も誰かの犠牲の上に成り立っている、私はこの映画を観てそう思わざるを得ませんでした。
でも、最後にはこれからを想像させる絶望だけではない希望のある終わり方が私は好きです。これからをどう私たちが作っていくのかと考えなければと思います。
天気の子はただのファンタジーでもSFでもない、この日本に世界に問題提起もしている映画だと思います。

「天気の子」は、映像の美しさと音楽性が見どころ

天気がテーマということもあり、一番最初に目を見張ったのは天候が変わっていく際の景色の描写の美しさでした。雨上がりの空や水が滴る様子など、繊細に作られていて大きな画面で見た時にとても迫力がありました。私がこの作品で一番気に入ったところは、最後の方の雨が止まなくなってしまうとしても、大切な人を守ると主人公が決めるシーンです。

人柱や運命をテーマにした作品の多くは、最後は当該キャラが犠牲になってしまう悲しい展開が多いのですが、この作品の主人公は愛する人を守る為に、人柱としての役割を壊そうとします。万人の為に自分を犠牲にするという展開は美しいのですが、やはりどこか造り物感というか、やるせなさを感じてしまうこともあります。それに比べて、今作は人間らしさが滲む選択や葛藤と、リアルな心情描写にとても共感することができました。設定がファンタジー色が強い分、キャラクターの内面や心の動きにリアリティがあり、感情移入しながら見ることができると思います。

劇中の音楽も作品に合わせて書き下ろされたものばかりだということで、楽曲の雰囲気や菓子がシーンやキャラクターに合っていました。映像のきれいさと音楽性の高さが、この作品の見どころだと思います。

天気の子の終わりは何が正解だったのか、今一度考えてみました。

人柱となった陽菜を帆高が連れ戻します。それによって東京は雨が降り続けることになり、都市は水浸しになります。この様子を「江戸自体はこのような地形だったのだから」と納得しようとします。
しかし、本当にそれでいいのでしょうか。

大切な人を帆高は連れ戻します。誰にでも大切な人はいることでしょう。その人のことを守りたいと思う気持ちはわかります。しかし、帆高が行ったことよって多くの人が犠牲になりました。大切な一人を助けて多くの人を犠牲にするのか、大切な人を失ってしまっても多くの人のことを考えるのか。その選択は難しいです。
たった一人であっても大切な命であることには変わりません。命の数の多さで尊さを測ることはできません。しかし、大切な一人を救うために多くの人を犠牲にし、大変な状況になっているのを見ても放置してしまうことに疑問を感じました。困っている人がいるのに、それを放置するなんて心が痛みます。

私は大切な人を守るのか、多くの人を守るのか悩んでしまいます。しかし、この地球をよりよくしていくことを考えるなら、多くの人を救うことを優先するかもしれません。
映画を見てもすっきりしないところがあったのですが、何を守って何を失うのか考えさせられる映画でした。

宇宙は広いので人間がどうしようもないことがあると思う

最初は家出してマンガ喫茶やマックでなんとか生活する帆高について、世間の冷たさであったり社会の厳しさ、不条理を題材にしていると思いましたが、陽菜と出会い生活が一変して楽しくなって、陽菜の天気を晴れにする能力や空の上には龍のような雲があって、陽菜が能力を使う引換に犠牲になっていたことがわかったあたりから、「宇宙は広いので人間がどうしようもないことがあると思う」そういう風に思うようになりました。

所々では、警察官の対応がひどいと思ったり、常にどうするのかといった選択を決めていかないといけない状況で、帆高と陽菜が世間や警察、水商売を経営するヤクザに負けないで愛を強く深めていくストーリーと思っていましたが、陽菜が体が能力と引き換えに消えそうになってしまったり、空の雲に行かないと雨が降り続けて住めない状況になっていくなど、人間がどうしようない、世界や宇宙には魔物とか宇宙人のようなどうしようもない力を持った存在がいるのではないかと思うようになりました。生き物のような水の塊であったり、雲にいる龍のようなもの、そして神社の鳥居など、何かとてつもない存在が世界や宇宙を操っていて、その力には人間は無力というか何も対応できない虚しさを最後は感じました。

もちろん、最後に陽菜が戻ってこれて帆高と再会できたのは嬉しかったですが。