もしあなたがホラー映画の熱心なファンなら、突然大きな音がしてモンスターや殺人鬼が飛び出すような虚仮威し演出には辟易しているのではないでしょうか。思いがけないところで突然大きな音がしたら、誰でも驚くに決まっています。でもそれは真のホラー映画好きが求める怖さではないように思います。
では、そのような虚仮威しとは違う本当の怖さとは何なのか? それを1本の映画を通じて考えてみましょう。スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』。ジャック・ニコルソンの狂気が印象的な作品です。
続編にあたる『ドクター・スリープ』も公開され、この作品を振り返るにはグッドタイミングです。
1.ジャックの『シャイニング』が伝説の映画になるまで
1.1 公開当時はむしろ不評だった傑作
間もなく製作から40年が経ちますが、今なおホラー映画の世界に絶大な影響を与えてやまない『シャイニング』。モダンホラーの新星として飛ぶ鳥を落とす勢いだったスティーヴン・キングの原作を、巨匠スタンリー・キューブリックが映画化ということで、製作開始の時点から大きな話題になっていました。ところが完成した作品を見ると、当時ホラー映画(≒で最近死語になった感がある「オカルト映画」)の主流にあった『エクソシスト』や『オーメン』のようなこれ見よがしのショック演出が無く、ストーリーも難解なため、公開直後は「これはホラーなのか?」という戸惑いの声の方が大きかったのです。一般観客の戸惑いもさることながら、原作者のキング自身が映画を徹底的にこき下ろし、ウィリアム・フリードキン監督まで「まったく怖くない。俺の『エクソシスト』とは比べものにならない」と余計な口を挟んだため(笑)、やはりこれは失敗作だったのではないかという空気が支配的になり、評価は低迷することになりました。
ジャック・ニコルソンの狂気も、ホラーとは受け止められなかったのでしょう。
1.2 権威ある賞からも無視された
あくまでも1つの基準ではありますが、歴史のあるキネマ旬報ベストテンを眺めると、キューブリック映画は『2001年宇宙の旅』(1968年度/第5位)『時計じかけのオレンジ』(1972年度/第4位)『バリー・リンドン』(1976年年度/第4位)と連続して高い評価を得ていましたが、1980年度の本作はベストテン落ちしています。8年後の『フルメタル・ジャケット』で第2位に返り咲いているので、キューブリック黄金期の作品で『シャイニング』だけ、公開時の評価が突出して低かったのは明らかです。
事情は海外でも同じで、米アカデミー賞では、『2001年宇宙の旅』『時計じかけのオレンジ』『バリー・リンドン』が主要部門を含む複数部門にノミネートされ、特に『バリー・リンドン』は4部門で受賞しているのに対し、その次作に当たる本作はアカデミー賞から完全無視されています。
本作が再評価され、映画史の中で押しも押されもせぬポジションについたのは、キューブリックが世を去り、DVDというメディアが一般的なものとなった21世紀に入ってからだったと記憶しています。
2.なぜスティーヴン・キングは怒ったのか?
2.1 ジャック・ニコルソンの狂気とは裏腹に、実は原作より地味
当時の評価低迷に大きな影響を与えたのは原作者であるキング自身による酷評ですが、原作を読めば、彼が映画版をこき下ろした理由も分からないではありません。小説と映画では、作品の方向性がまるっきり違うのです。
原作は、シャイニング(一種の超能力)を持つダニー少年とホテルに巣くう悪霊の攻防戦を、両者の間で揺れ動く父親ジャックを挟みつつ、もっと分かりやすいサスペンスタッチで描いています。ラストはオーバールックホテル炎上のスペクタクルで、悪の巣窟であるホテルが消滅することで、劇的なカタルシスも得られます。優れたホラーでありつつも、エンタテインメントとして完璧な作品です。
それに比べると、映画は比較にならないほど地味です。そもそも表面的なストーリーだけを追っていると、悪霊のような存在がジャック(ジャック・ニコルソン)のストレスと酩酊から生み出された妄想のようにも見えます。ダニー(ダニー・ロイド)やハンラハン(スキャットマン・クローザース)のシャイニングはストーリーの進行にほとんど影響しません。クライマックスは雪の庭での追いかけっこで、スペクタクル性は希薄。ホテル自体は破壊されず、多くの謎ばかりが残るため、劇的なカタルシスはほとんど得られません。キングは「私の小説は炎で終わるが、キューブリックの映画は氷で終わる」という名言を残しています。「エンタテインメント」として見れば、映画版はハッキリ言ってショボいです。
2.2 映画が描こうとしたものは未知なる恐怖
原作の一番面白い部分を切り捨てて地味な展開にしたのだから、キングが怒るのも無理はありません。しかし映画が駄作かと言えば決してそんなことはなく、原作とは全く位相の違う怖さを実現しています。原作は敵=悪霊の存在がはっきりしているため、その魔の手からどのように逃れるかというサスペンスが主体になってきます。ただしその分 描写が説明的になる嫌いはあるし、トランス一家に害を為そうとしている敵がどんな存在なのか分からないという未知の恐怖は薄れています。
それに対してキューブリックは「そこに確かに存在する、しかし未知なる恐怖」を描くことに傾注しています。しかもその描き方が極めてユニークだったため、公開時には観客に戸惑いをもたらし、ある程度の年月を経た後、真価を理解されるに至ったのです。
そのユニークな演出の例として3つの要素を取り上げてみましょう。
3.ジャックの狂気としての「文字」
3.1 文字を通じてジャックの狂気が発現する
多くの人が本作で一番怖いシーンとして上げるのは、小説を書いていたはずのジャックの原稿がすべて「All work and no play makes Jack a dull boy(仕事ばかりで遊ばずにいるとジャックはダメになる)」というフレーズで埋め尽くされていたと分かるところでしょう。それまでのジャック絡みの不気味なシーンは、アルコールによる幻想とも受け取れますが、このシーンは妻ウェンディ(シェリー・デュバル)の視点によって、ジャックが完全に狂気に陥っていることが分かるため非常にショッキングです。
この諺は、日本で言えば「よく学びよく遊べ」と同じようなもので、boyという言葉からも分かるように本来は子どもに関するものです。それを大人であるジャックが延々と打ち続けていることに凄まじい狂気を感じます。
3.2 視覚情報としての文字に潜むジャックの狂気
しかしこのシーンの本当の恐ろしさは、文字の意味ではなく、文字そのものの視覚的な情報を通じて伝わってきます。同じフレーズが果てしなく連なっているだけで、ジャックの狂気が十分に伝わってきます。しかしよく見ると1行ごとに単語やスペースの入れ方が微妙に異なっていたり、紙によって打ち方のレイアウトが異なっていたりする…そこには歪んだユーモアも感じられますが、ジャックが完全にあちら側の世界に行ってしまっていること、自分たちとは別の世界で理解できない遊びに耽っていることが「視覚的に」伝わってくる。だからこそあれほど戦慄するのです。
4.シンメトリー
4.1 シンメトリーの向こうにいるもの
もう一つ本作の恐怖演出で特筆すべきはシンメトリー(左右対称)の強調でしょう。キューブリックは元々シンメトリーが好きな作家で、『時計じかけのオレンジ』など他の作品でも見ることができますが、最も強い印象を残すのは、やはり本作です。シンメトリーは自然界にはほとんど存在しないので、そこには常に何者かの意図が感じられます。本作ではそれを多用することで、「このホテルには得体の知れない何者かが存在する」と感じさせることに成功しています。
4.2 自然のシンメトリーという不自然
そして自然界にはほとんど存在しないと書いたとおり、人間に見える範囲に存在するシンメトリーは、ほとんどが建築物など人工的なものです。ところがキューブリックは、そこに「自然のシンメトリー」を持ち込みました。ダイアン・アーバスの写真に想を得たとされる、あの双子です。双子自体はそこまで珍しいものではありませんが、キューブリックは姉妹にまったく同じ服を着せ、その対称性をことさら強調しています。しかも双子が登場するのはホテルの廊下で、人工的なシンメトリーに満ちています。双子はダニーに直接的な危害を加えるわけではありません。にも関わらず、「人工的なシンメトリーの中に自然のシンメトリーが現れる」という不自然さが、ただそこに存在するだけで逃げ出したくなるほどの禍々しさを感じさせるのです。
5.空撮
5.1 霊的な存在を印象づける
もう1つ、本作のムードを決定づけているのがオープニングの空撮です。ドローンでの撮影が一般化した昨今では特に驚きを感じないかもしれませんが、1980年当時、この空撮の自然な浮遊感はかなり斬新なものでした。その未使用テイクが『ブレードランナー』のラストに流用された逸話も、あの空撮の価値を物語っていると言えます。
そこに映し出されているのは、広大で美しい自然です(ロケ地はモンタナ州グレイシャー国立公園)。雰囲気を変えれば格好の観光PR映像となりうるかもしれません。しかし本作のオープニングは、葬送行進曲のような重々しいテーマ曲も相まって、極めて不気味な印象です。
何故これほど気味が悪いのか? 1つの理由は、すでに述べた「自然過ぎる浮遊感」にあります。実際にはヘリコプターで撮影しているのですが、そのような人工的な雰囲気を感じさせず、実体の無い霊的なものがトランス一家の乗った車の後をそっとつけているようにしか見えないのです。
5.2 「ここはお前がいるべき場所ではない」
さらに、この広大な自然そのものが怖さを醸し出しています。確かにそれは美しい風景です。しかしその中で動いているのはトランス一家の乗ったちっぽけな車だけ。たまに停まっている車は見られるものの、生きた人間の気配が何1つ感じられません。つまり、美しいけれど徹底的に「非人間的」な光景なのです。『2001年宇宙の旅』における茫漠とした宇宙空間と、そこを進むディスカバリー号にも似た関係です。
物言わぬ自然は人間には無関心。いざとなれば、文明から切り離された人間のことなど気にもかけないでしょう。そこで蠢くものは、ちっぽけな人間たちと、何か得体の知れない霊的な存在…この構図は、完全にその後の物語を暗示しています。「ここはお前がいるべき場所ではない」…そんな巨大な圧力をこのオーブニングから感じずにはいられません。
6.『シャイニング』の怖さの本質
ここまで書けば、映画版『シャイニング』の怖さの本質がどこにあるか分かるでしょう。それは徹底して「視覚的な怖さ」です。しかも(そういう描写もありますが)スプラッタームービーのような暴力的でグロテスクな怖さではなく、その向こうにある目に見えない存在が醸し出す恐怖。つまり「視覚的でありながら、視覚を超えた恐怖を感じさせる演出」で貫かれた映画なのです。これは、言葉によって構築される小説では不可能に近いことで、映画版がキングの原作と別物になったのも当然と言えるでしょう。
また「説明的な描写を排し、視覚的な体験を通じて、視覚を超えた存在を感じさせる」という点において、『シャイニング』と『2001年宇宙の旅』が非常に近しい関係にあることにも気づきます。『2001年宇宙の旅』も公開当初は戸惑いの声の方が圧倒的に多く、それから10年ほどの歳月をかけて、徐々にSF映画の最高傑作と認識されるようになりました。『シャイニング』がそれと同じような道をたどったのは、決して偶然ではないのです。
そんな先駆的な演出がなされたホラー映画の金字塔『シャイニング』。『ドクター・スリープ』を見る前に、ぜひ見直しておくことをお勧めします。
【参考になる「シャイニング」の考察ページ】
【ネタバレ解説】映画『シャイニング』主人公ジャックの正体、ラストシーンの意味を徹底考察