『演説での名言』あなたの魂を揺さぶるスレード中佐の演説

 高校生が感謝祭の休暇中に、アルバイトで目の不自由な退役軍人のお世話をする数日間の物語。「セント・オブ・ウーマン」を簡単に説明すれば、これだけのことになります。映画の概要を聞いただけならば、何人の人がこの映画を見ようと思うでしょうか。感動的な物語ではあるかもしれないけど、エンターテインメント性としてはどうか、ちょっと地味な映画なのかな、と思われてしまうかもしれません。
 しかし、「セント・オブ・ウーマン」は間違いなく名作中の名作であることに間違いありません。なんと言ってもこの映画の見せ場は、終盤でのアル・パチーノ演じるフランク・スレード中佐の懲戒委員会での演説シーンです。それがこの映画の全てである、といっても過言ではないかもしれません。
 クリス・オドネル演じる高校生チャーリー・シムズが学校内でのトラブルに巻き込まれ、退学処分を受けそうになるのですが、フランクはその懲戒委員会に乗り込み、「盟友」チャーリー・シムズのために名演説をぶち上げるのです。
 わずか数分間のシーンですが、何度見ても心に響いてくるものがあります。我々はその言葉ひとつひとつに魂を揺さぶられ、心の底に眠っていたもの、日常生活で忘れかけていた本当に大切なものを思い出すのです。
 この映画で、もう一度見たいシーンを一つだけ選べと言われたら、間違いなくこの演説のシーンを選ぶでしょう。このシーンにこの映画の全ての思い、信念が込められているかもしれません。ある意味、それまでの2時間以上の上映時間は、この演説シーンの導入のためにある、と言っていいかもしれません。
 とはいうものの、この映画はこの名シーン以外にも見所が満載であり、エンターテインメント性もあって、時に涙あり、笑いあり、2時間以上があっという間に過ぎてしまいます。
 たった1シーンの出演だけなのに、ガブリエル・アンウォー演じるドナの美しさと存在感は見る者を魅了します。そして、そのドナがフランクと踊るタンゴは、ある意味でこの映画のメインテーマ、さらには「人生」までも象徴しており、終盤への重要な伏線にもなっています。
 そして、フランクが女性の2番目に好きだという真っ赤なフェラーリで街を疾走するシーン。この作品でアカデミー主演男優賞を受賞したアル・パチーノの歴史に残る名演技。そのセリフの一つ一つが素晴らしく、また蘊蓄があり、それらが終盤の伏線にもなっていきます。
 これを名作と言わずして何を名作というのでしょうか。この映画を見ないで死ぬことは人生の損失と言っていいでしょう。

あらすじ①タンゴと人生

 高校生のチャーリー・シムズ(クリス・オドネル)は、感謝祭の期間中のアルバイトで、気難しくて目が不自由な退役軍人である、フランク・スレード中佐(アル・パチーノ)の世話をすることになります。そして、チャーリーはフランクに強引にニューヨークへの不思議な豪遊の旅に連れ出されるのです。そこで立ち寄った店で美しい女性ドナ(ガブリエル・アンウォー)と出会います。
 このお店ではバンドの生演奏でタンゴが流れており、そこで、フランクはドナに一緒にタンゴを踊るように誘います。踊ることに躊躇するドナにフランクが言います。「タンゴは人生と違って間違いはない。足が絡まっても踊り続ければいい」。ドナとフランクがタンゴを踊るシーンは、この映画の中盤の魅せ場の一つと言っていいでしょう。
 素敵な女性のエスコートが生き甲斐のダンディなフランクの面目躍如です。そして、ドナの透き通るような美しさ。この映画では「香り」が一つのキーワードになっていますが、ドナの愛用するオグリビーの石鹸の香りが見ているものにも感じ取れるかのようです。「匂い立つ」とはまさにこのことでしょう。
 流れる曲は、名曲「ポル・ウナ・カベサ」。ダンスに使われる音楽の中でも、タンゴは日本人に人気があると言います。スタッカートの聞いた歯切れの良さの中にも独特の哀愁が漂い、まるで人生の光と陰を表しているようで、それが日本人の感性に訴えるものがあるのかもしれません。
 タンゴと人生。漂う哀愁と人生の光と陰。フランクの「タンゴには人生と違って間違いが無い」というセリフは、フランクが「人生は間違えることがある」と考えてることを暗示しており、それが現在のフランクに漂う哀愁と孤独の原因にもなっているのです。フランクの人生も平坦ではありませんでした。
 フランクは自分の不注意から失明にいたる事故を起こしてしまい、失明後はそれまでの華やかな軍人生活とは対象的にみじめなものであり、彼は自分自身に、また、手のひらを返すように自分に冷たくなった世間に対して絶望していたのです。

あらすじ②フランクとチャーリー

 ニューヨークへの不思議な豪遊の旅をするうちに、フランクとチャーリーの間にはお互いに不思議な感情が芽生えていきます。それは、「年齢や立場を越えた友情」という言葉だけでは説明しきれないものであるように思います。
 フランクのことを最初は気難しくて、とっつきにくく恐い人物と思っていたチャーリーでしたが、フランクの人柄に触れて少しずつその考えが変わっていきます。
 フランクは、強面の印象とは裏腹に、実はウィットに富んだダンディーで素敵なおじさんだったのです。ニューヨークへ向かう飛行機の中で、「この世でただ一つ聞く価値がある言葉は’PUSSY’だ」などといってチャーリーを面食らわせます。「(素晴らしい女性というものを作った)神様は天才だ」と女性への賛辞を惜しまず、死ぬまで男性は女性に執着するものだ、などどとフェミニストぶりを発揮しつつも、きわどいセクハラまがいのセリフを連発します。しかし、ダンディーなフランクが言うと、これらのセリフがすべてカッコ良く「サマ」になってしまいます。
 フランク曰く、「(女性が1番好きだが)ずっとずっと離れた2番目はスポーツカー」で、目が不自由にもかかわらず大好きなフェラーリを猛スピードで疾走させてチャーリーを困らせ、警官に停止させられたりする子供のような無邪気な一面も持っています。
 チャーリーは、一緒に旅をするうちにフランクの人間味に触れ、少しずつフランクという人物に惹かれていきます。真面目な苦学生だったチャーリーにとって、フランクは大人の余裕や遊び心、そしてちょっと危険な嗜みなど、今まで知らなかった世界を教えてくれる素敵な先生でした。
 また、チャーリーはフランクの傍若無人にも見える一見横暴な振る舞いは、彼が抱える孤独の裏返しなのだということを少しずつ理解していきます。チャーリーはフランクの深い苦しみに共感することができる心優しい青年でした。
 一方で、フランクは、チャーリーのことを当初は頼りない若者だと思って軽く見ていましたが、誠実に自分に尽くしてくれる仕事ぶりに見る目が変わっていきます。また、学校でトラブルに巻き込まれたチャーリーが自分の信念を曲げず、自分の立場を守るために友達を告発することを潔しとしないその一貫した態度に対して徐々に一目置くようになっていきます。
 失明してしまった自分自身に対して、さらにはその自分に冷たい世間に対して絶望しかけていたフランクでしたが、チャーリーの真っ直ぐなぶれない一途な心の中に、僅かながらも人生の曙光を見出して行くのです。
 フランクとチャーリー。感謝祭の休暇中、二人は今までの自分の人生で出逢ったことのない類の人物に偶然に出逢います。そして、しばし人生の旅を共にすることで、それぞれの人生が大きく変わっていくのです。二人の関係は友情という単純なものではありませんでした。フランクはチャーリーによって救われ、チャーリーもまたフランクによって救われていくのです。

あらすじ③救う者と救われる者

 フランクは旅の途中、チャーリーに言っていました。「世の中には2種類の人間しかいない。潔く戦う者と逃げる者。逃げる方が利口だ」「不倫は当たり前、親孝行するのは母の日だけ、腐った世の中だ」「君は(その調子では)世の中に出たら苦労する」。
 人生と世間に絶望したフランクは、この豪遊の旅を最後の思い出に拳銃自殺するつもりでした。軍服に着替えて自殺しようとするフランクを、身を挺して止めようとするチャーリー。
 「俺は暗闇の中にいる」「俺に生きる希望があるのか」。人生に絶望し、苦悩するフランクは自殺を止めようとするチャーリーにも銃口を向けます。チャーリーは自らの命もかえりみず、真っすぐにフランクを見て言います。貴方はフェラーリの運転が巧いしタンゴを踊るのも上手だ。「足が絡まっても踊り続ければいい」。
 フランクを止めるのがチャーリーでなかったら、フランクはその人を撃った後で自殺していたかもしれません。フランクがチャーリーの言葉で自殺を思いとどまるに至ったのは、この目の前の素晴らしい若者に、その一途さと正直な人柄の中に、この世の希望を見出したからに違い有りません。

魂の「演説」今こそ輝きを増す

 チャーリーに命を救われたフランクは、今度はチャーリーを救うためにチャーリーの高校に乗り込み、トラスク校長と対峙します。トラスク校長は、推薦入学を餌にしつつも退学というカードを脅しにし、巧みにチャーリーに友人のいたずらを告発させようとしていました。全校生徒と教職員が集まった懲戒委員会に乗り込んだフランクの大演説が始まります。
 この演説は、映画史に残る演説なのではないでしょうか。英語が少しでもできる方は、いや、できない方も是非フランク・スレード中佐になりきって全文を暗記して真似してみましょう。間違いなく名文です。
 マーチン・ルーサー・キングの演説、ケネディの大統領就任演説、古くはリンカーンのゲティスバーグの演説にも匹敵するでしょう。自分の信念が折れそうになった時、四面楚歌の時、そして何よりあなたが人世の岐路に立ったときに、この演説はあなたを奮い立たせてくれるでしょう。
 「私にも目が見えるときがあった。ここにいる者たちよりも若い兵士たちが腕をもぎ取られ、足を引きちぎられるのを見てきた。しかし、一番の悲劇は魂をつぶされた者だ。潰れた魂に義足はつかない」
 「私は人生の岐路に立ったときに、例外なく正しい道がどちらかは解った。しかし、決してそちらを行くことは無かった。なぜか?それは困難な道だったからだ。」
「彼に旅をつづけさせてあげよう。彼の未来は、あなたがたの手の中にある。価値ある未来だ。私を信じてくれ。それを潰さずに、あたたかく見守ってほしい。いつかきっと、それを誇れる日が来る。」
 フランクの演説は聞く者の心に深く刺さり、その魂を揺さぶりました。絶望しても、倒れても、また起きあがって生き続ける。足が絡まっても踊り続ける。人生とは、それだけの価値があるものなのだ、フランクは自分自身にそう言いきかせたかったのではないでしょうか。演説は、自分自身をも奮い立たせるものだったはずです。
 自分が生きるための一縷の希望、明日への曙光。チャーリーのまっすぐで高潔な心を守ることは、自分のこの世への希望を繋ぐこと、生きる証を再確認する自分との戦いでもあったはずです。
 いい映画であることの条件の一つは、上映から何年経っても古さを感じさせないことではないか、と思います。それどころか、素晴らしい作品は時代を超えてかえって輝きを増してくるようにさえ思えるのです。
「セント・オブ・ウーマン」も間違いなく素晴らしい映画であり、フランクの演説は時を越えて輝きを増しているように思います。
 フランク・スレード中佐は、トラスク校長にこうも言っています。「この茶番劇はなんだ。ふざけるな。ここは卑怯者の巣窟か?この学校に元々あった高邁な精神は失われている」「5年前だったら、ここを火炎放射器で焼き払っている」と。
 「溜飲が下がる」とは、まさにこのことでしょうか。人間が持つ「業」は、時に火炎放射器で焼き払ってしまったほうがいいものを作り出してしまいます。フランク・スレード中佐に、腐りきった某国の国会で是非熱弁をふるっていただきたいものです。いや、熱弁だけでは足りないかもしれませせん。いっそ火炎放射器で焼き払っていただきたいものです。フランク・スレード中佐の演説は、時を超えて現代においてこそ必要なものかもしれません。
 あなたが、フランク・スレード中佐に火炎放射器で焼き払って欲しいと思うものは何ですか?