皆さんは、映画『ぼくらの七日間戦争』をご存知だろうか?1985年に宗田理さんにより書き下ろされた小説(角川文庫版)が元となり、1988年に映画化された作品だ。この作品で初出演を飾ったのは何を隠そう、今や日本の大女優、宮沢りえである(役:中山ひとみ)。この情報だけでも既に見る価値のある作品なのだが、今回は映画『ぼくらの七日間戦争』から教育と子供たちにフォーカスを当てこの作品の魅力を考察していきたい
アニメ映画『ぼくらの七日間戦争』あらすじ
ここでは簡単に映画のあらすじを紹介していく。
映画の舞台は中学校。今では考えられないような厳しい校則によって生徒を指導している教育現場。生徒に対する先生からの体罰も普通に行われている時代。先生や大人たちからの不公平とも言える扱いに嫌気がさした生徒たちは授業をボイコットし、町の外れにある工場の跡地で集団生活をすることになる。そんな子供たちを先生や大人たちは力ずくで工場から引き摺り出そうとする。子供たちは自分たちの知恵やアイディア、そして団結力を武器に大人たちに立ち向かっていく。教育現場を舞台としながら、大人と子供それぞれの葛藤を映画いた作品。
映画の注目ポイント1.教育現場の描かれ方
教室までの道のり
まず、皆さんはどのように学校に通っていただろうか?最近の小中学生は毎朝と帰宅時、親に学校まで送り迎えをしてもらっている子が普通にいるらしい。と言うことは、学校の校門の前で竹刀を持った体育教師に出会すことももうないのだろう。昔の学校ではまず、竹刀を持った体育教師のチェックをクリアしなければ学校に入れなかった。校則に反する身なりをしている生徒に対しては有無を言わせず、大人の考えに従わせていた。
髪の毛にワックスを付けていった生徒は、外の手洗い場で頭を洗わさせ、女子生徒の前髪が目にかかっているようなら、その場で前髪を切られたりもする。学校へ登校し、自分の席まで辿り着くまで、昔の教育現場は生徒たちにとって、かなり険しい道のりだった。校門での先生らによるチェックは、国と国を通わす国境の如く、そのチェックは厳しかった。
体育教師の存在
今の時代も多かれ少なかれ不良は存在しているだろう。授業をさぼり、仲間とつるんで悪さをする。やっていることは今も昔もあまり変わらないかもしれないが、その不良たちを取り巻く環境はだいぶ変わってきていると思う。その大きな要因は体育教師だ(映画内でも重要な役割を担っている)。
この前の章でも登場した体育教師だが、その見た目や存在は現代の体育教師とは訳が違っていた。ただ単に体育を教える専門の先生という立場だけでなく、生徒の指導を先頭に立って行う立場でもあった。
学校の内外で悪さをする不良たちからも、他の先生を見る目とは若干違っていただろう。「この先生に怒られたらまじでやばい」そんな存在であった。
現代の教育現場では、どんな理由があろうと生徒に対しての体罰は絶対にあってはならないことだ。その事実は先生たちだけでなく、なりより生徒たちが理解している。
「体罰をしたらどうなるのか?」それを理解している生徒たちはそれを武器に先生を追い詰めていく。もし今の生徒が過去にタイムスリップして、今と同じような感覚で先生と接した場合、問答無用で体罰を受けるだろう。もしかしたらその当時の周りの人間は教師のそのような行動を「体罰」と呼ばないかもしれない。「体罰」を「ただの暴力」と訳しているのは現代人だけで、当時の人からしたら「体罰」は単なる「教育」だったのかもしれない。
モンスターペアレントの存在
映画の中でもモンスターペアレントは登場してくる。授業をボイコットし、家にも帰ってこなくなった生徒の親たちが学校へと乗り込んでくるシーンである。
親たちは授業をボイコットするような子になってしまったのは学校の教育が悪いからだと主張する。現代のモンスターペアレントとそんな変わらない姿である。
しかし、映画の世界ではその親たちを対応する教師の姿が今とは違っていた。こんな子供に育ったのは学校教育が悪いからだと主張する親たちに対し、教師側は、学校教育に原因があるわけではなく、家庭内での教育に問題があるのでは?と主張するのだ。このようなやりとりは、今の教育現場では考えられるだろうか?
共働きが当たり前となった現代で、親が自分の子供と接する時間は減ってきている。そのため、「教育」イコール学校で行うことと、誤った解釈が広がっている。
学校は、国語や算数、社会などの学習を教え育てていく場所である。その一方家庭は、言葉遣いや礼儀、作法といったことを教え育てる場所である。いわば、学校側と家庭側で役割分担をし、子供たちを育てているのである。本来、家庭内での「教育」で身につけた言葉遣いや礼儀などは、学校の先生に向けて子供たちは発揮しなければいけない。
いつの時代もモンスターペアレントは存在しているが、本気で子供に向き合っているのは映画に登場するモンスターペアレントたちだと感じてしまう。
映画の注目ポイント2.子供たちの描かれ方
彩豊かな子供たち
「最近の若者は」と大人たちに言われることがよくある。大人たちのそう言った発言に嫌な気分になってしまう若者も多いのではないか。でもちょっと考えればその大人たちの言葉は大したものではないことに気がつく。なぜなら、「最近の若者は」と発言している大人たちも過去は言われる立場だったからである。
1988年に公開された『ぼくらの七日間戦争』に登場してくる子供たちも、大人たちから「最近の若者は」という目線で見られていた、そんな存在だ。
しかし、この映画に登場してくる子供たちはとても魅力的だ。
スポーツはできるが勉強ができないクラスのリーダー的存在の子供や、勉強はできるが普段あまり喋らない子供など様々だ。普段の学校生活ではあまり関わらないような対極的な子供同士が授業をボイコットし、町の外れにある工場の跡地で集団生活することになって初めて関わり合う。
自分には持っていない能力は他の人が持っていたりする。お互い補塡しあって暮らしていけば、なにも問題はない。それができたのは、子供たち一人ひとりに個性があったからだ。
大人になってから個性はなかなか伸ばすことができない。純粋に好きなことに没頭ができる子供時代に存分に個性を伸ばしておこう。そんな気持ちにさせられる。
利益を求めない子供たち
大人たちに反抗した子供たちは何を求めていたのだろうか?
お金が欲しかったわけではない。ゲームが欲しかったわけではない。子供たちが欲しかったものは「自由」と「平等」だった。
大人の言いなりに生きていくのが嫌だった。子供は時が経てば必ず大人になる。文句を言わずただ我慢をして自分が大人になった時に思い通りの生活を送る。映画に登場する子供たちはそれが許せなかった。限られた子供時代であっても大人と同様の「自由」と「平等」を欲していた。
それに変わって映画内の大人たちはどう描かれていたかというと、他人からどう見られているかや、学校側としての立場など、自分たちの「利益」にばかり目がいってしまっていた。
作品を通して子供たちの揺れ動く心情がよく表現されている。よく考え仲間と話し合い実行する。その姿からは子供たちが「利益」のために行動しているのではなく、より良い生き方を求めていることが窺えるだろう。
『ぼくらの七日間戦争』まとめ
映画『ぼくらの七日間戦争』は、現代の私たちが見るにはやや刺激が強いかもしれない。物が溢れ情報が飛び交うこの世の中は、昔に比べると大変便利だ。しかし一方でこの世の中の流れに私たち人間の精神はついていけているだろうか?
便利なものが発明されるとそれをうまく活用して生きていける人もいれば、そういった生活に心を乱されてしまう人もいる。
「人生幸せに生きる」それが私たち人間の最大の目標であり、追い求めていくのは「利益」ではない。
Seven days war.
たった七日間の戦争であっても子供たちは自分たちの人生のために戦った。
そんな純粋かつ、大胆な子供たちの活躍ぶりを心で感じて欲しいそんな作品となっている。