半世紀以上も色褪せぬ恐怖

「怪談」という言葉は、本来恐ろしい物語の総称、つまり一般名詞ですが、それをずばりタイトルにした作品が小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の書いた小説『怪談』です

。小説と言っても八雲の完全オリジナルではなく、日本に古来より伝わる伝説を彼がまとめ文学的に再構成したもの。もちろんこのような手法は、古今東西のさまざまな作家がやっていることで、何らその文学的価値をおとしめるものではありません。日本人なら知らない人はいないであろう「雪女」にせよ「耳無芳一」にせよ、八雲の『怪談』が無かったら、これほどまでに人口に膾炙していなかったことでしょう。

そんな日本文学の古典を、小林正樹監督がオムニバス形式で映画化した作品が『怪談』です。50年以上前の製作ですから、もちろんCGなど無く、特殊効果は素朴なものだけ。それでも十分な怖さを感じることができるのは何故なのか? その秘密について考えてみましょう。

音楽音響の怪

これは音楽なのか?

本作の薄気味悪さに最も貢献しているのは、音楽/音響かもしれません。それほど本作の音響設計は常軌を逸しています。

まず武満徹の音楽ですが、これはそもそも「音楽」と言えるのでしょうか? 
何の楽器でどう出しているのかもよく分からない、奇妙な音の数々。一般的に音楽は、メロディ・リズム・ハーモニーの3要素で構成されると言われています。最初のエピソード「黒髪」で聞こえてくる音には、そのどれもが欠けているのですから、これは一般的な意味での音楽ではないのかもしれません

。しかし明らかに自然の音ではなく、ただの効果音でもない。そこには何らかの意図を感じさせる。ところが何者のどんな意図を示すのかが具体的に分からない…人間的な喜怒哀楽を超えた音の響きが不気味さを際だたせています。武満徹のクレジットが、そもそも「音楽」ではなく「音楽音響」となっている意味に注目すべきでしょう。

音の引き算

さらに気味が悪いのは、本作は足音や衣擦れなど、人間が生きて動いていれば当然聞こえてくる自然な音が、多くの部分で排除されていることです。
普通の映画は、リアリティ重視でそういうものを当たり前に入れた上で音楽を加えていく足し算の発想ですが、本作の音響設計は、徹底した引き算の発想で作られています。多くの場面において、「あるべき音が無い」のです。

不自然な音空間

その結果生まれてくるのは、極めて不自然な音空間です。皆さんは無響室というものに入られたことがありますか? 特殊な素材と設計で音の反響をほとんど無くした部屋のことです。

これがなかなか異様な雰囲気で、音の無い空間が「実体のある何か」で満たされているような奇妙な感覚を覚えます。敏感な人なら、すぐに気分が悪くなって出たがるほどです。何か変な超音波でも出しているならともかく、反響音が無いことが何故これほど不気味なのか不思議ですが、それほど我々は「あって当たり前の音」を無意識のうちに感知しているのでしょう。

この映画の音響設計は、無響室に近い不自然さを感じさせ、しかもそこに普段は聞くことがない「音楽ならざる音楽」が加わる。その聴覚の混乱が、言い知れぬ不安を掻き立てるのです。このような音楽音響による恐怖演出は、最初の「黒髪」と最後の「茶碗の話」において顕著です。

美しさの中に潜む不自然さ

書き割りの背景

一方「雪女」と「耳無芳一の話」では、もっぱら美術や撮影の面で不自然な感覚を強調しています。
「黒髪」には印象的なロケ撮影もありますが、この2本は「耳無芳一の話」の海辺のシーンを除けば、全編が露骨なまでのセット撮影です。

背景が一目瞭然の書き割りで、映画と言うより舞台劇を見ているような印象を覚えます。ただし書き割りの背景に描かれているものは、現実の代用となる風景ではありません。
特に「雪女」では、実際の風景とはまるで違う絵が描かれているのです。黒澤明が『夢』の「鴉」というエピソードで、VFXを駆使して背景をゴッホの絵そっくりにしましたが、その先取りと言えるでしょう。

何者かに見つめられている

背景の絵柄は日本の洋画の流れを組むもので、文字通り絵画的な美しさがあります。

しかし調和に満ちた美とはかけ離れていて、全てが不穏です。特に「雪女」の最初の方には、何者かの目を思わせるような絵柄が出てきます。

日本の有名な洋画家 靉光(あいみつ)の代表作『眼のある風景』を想起させるもので、色彩やうねうねとした線から見ても、実際にあの絵からインスピレーションを受けたのかもしれません

。また『カリガリ博士』など戦前のドイツ表現主義からの影響も感じられます。このような空間造形からは、日常慣れ親しんだ空間とは違う不自然さに加え、「何者かに見つめられている」という不気味さが感じられます。

宙に浮かぶ視点

この「何者かに見つめられている」という不気味さをさらに強調するのが、カメラのポジションです。

本作を注意深く観れば、高さ2〜3mからの俯瞰撮影が非常に多いことに気づくでしょう。
この2〜3mという高さがなかなか絶妙です。何も無い場所に浮かんで、そんな高さから人の行動を見ることなどまずありません。

これがもっと高くなると神の視点のようになってきますが、それよりはずっと日常に近い、しかし明らかに日常生活には存在しない、異様な視点。
人を見下ろす感じなので、何か意思のある存在が、文字通り上から目線で(笑)人を見つめている感じがします。しかもその正体や意思がよく分からないことが、怖さを醸しだします。

このような演出は、本作だけでなく、霊的なものが登場するホラー映画でしばしば用いられている手法なので、次にその手の映画をご覧になる時は注目してみてください

。逆に言えば、そのようなカメラポジションが1つの定型になっていたからこそ、全編手持ちカメラの主観的な視点だけで構成した『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が新鮮に映ったわけです。あれはあれで、本作とは全く別の非日常的な視点を提示した作品と言えるでしょう。

意味が分からぬ怖さ

一体何が起きているのか?

4つのエピソードのうち「黒髪」「雪女」「耳無芳一の話」は、話の論理が比較的筋道立っています。
最後まで見れば、なぜそういうことが起きるのか、霊的な存在がどんな意図を持っていたかは大体理解できます。ところが最後の「茶碗の話」だけは、その例から外れます。

一体何が起きているのか、どうしてそうなるのか、霊的な存在の意図は何なのかが、皆目分かりません。そのため物語としての完成度はともかく、無条件に怖いという観点から言えば、このエピソードがベストでしょう。しかも本作は、「黒髪」と同様、音の引き算演出がフル活用されていて、感覚と知性の両面から神経に揺さぶりをかけてきます。

真の恐怖は原因も対処法も不明

どんな恐怖も、原因と対処法さえ分かれば、ある程度 怖さは和らぎます。最も怖いのは、原因も対処法も分からないまま、明らかに不吉な何かがやって来るという恐怖です。

そういう観点から言えば、たとえば『リング』は、前半は紛れもないホラーですが、後半は「原因の究明と対策の発見」に話の焦点が絞られ、ホラーではなく謎解きミステリーに変貌していくため、怖さはどんどん薄れていきます。ただ、見つけたはずの対策に意味がなかったという展開で、もう一度強引にホラーに引き戻したことで、あれだけの人気を獲得したわけです。

本作が後世に与えた影響

映画『怪談』の子孫たち

そのような「意味/正体が分からない怖さ」や「音の引き算」など、本作の特徴を最も色濃く受け継ぎ、さらに現代的にブラッシュアップしている作家は、黒沢清でしょう。
中でも『回路』は、『怪談』が持つ怖さを受け継ぎながら、「何もしなくても、ただそこに存在するだけで怖い幽霊」を描き出すことに成功した、ホラー映画の金字塔です。

ただし、明確な因果関係を描かないからこそ怖い映画話法を「まるで意味が分からない」と否定的に受け取る人も多いため、公開から20年近く経った今も賛否両論がある作品です。「意味が分からないから怖い」と思う人と「意味が分からないから怖くない」と思う人…世の中は面白いですね。

黒沢清自身は、作風が先鋭的過ぎるためか映画マニア以外にはそれほど知られていませんが、彼の影響を受けて、虚仮威しに頼らない「静かな恐怖演出」が様々な作品で見られるようになったのは確かです

。たとえば『リング』と清水崇監督の『呪怨』を比べてみれば、明らかに後者の方が『怪談』や黒沢清の系譜に近い静かな演出がなされていることが分かるでしょう。清水崇は映画美学校で黒沢清の教えを受けていたそうですから、当たり前と言えば当たり前かもしれませんが… さしずめ黒沢清は『怪談』の子どもで、清水崇は孫に当たるのかもしれません。

現実的な恐怖

最後に半ば余談。この『怪談』を製作したのは「文芸プロダクションにんじんくらぶ」という会社です。岸惠子・久我美子・有馬稲子という3人の女優を中心に作られた独立プロダクションで、本作と同じ小林正樹監督の『人間の条件』や、篠田正浩監督の『乾いた花』などの話題作を製作。

1950年代半ばから60年代半ばにかけて、五社協定に縛られていた日本映画界で、異彩を放つ存在でした。ところがこの『怪談』が、カンヌ映画祭で審査員特別賞を受賞するなど評価は高かったにも関わらず、興行的には大失敗(商売の観点から言えば183分は長すぎますよね…)。

にんじんくらぶは、あえなく倒産することになってしまいました。これも霊的なものの祟りでしょうか? ともあれ当事者にとっては、平家の怨霊よりも借金取りの方が怖かったかもしれません…