こんにちは!編集のKimikoです!

今日は、大ヒット映画『君の名は。』が大好きなライターさんたちに、映画の考察文を書いてもらいました。
それではご紹介します。

『君の名は。』考察文、ライターさん10人分をご紹介

結ばれるべき2人は必ずいるはず

君の名を見た時に、始めの方は単なる入れ替わりの映画なのかと思ってしまいました。
しかし、映画を見ているうちに実は単なる入れ替わりではなく、三葉はすでに死んでいる女の子であることでした。
そもそも瀧君と三葉は、同い年だと思っていたのに三葉が瀧君に会いに行った時に彼は中学2年で三葉は高校2年で3歳の年の差があることが分かりました。

この君の名は単なる入れ替わりの話しではなく運命で結ばれた2人が、時間を超えた入れ替わりをした話だったんです。
瀧君が運命の相手である三葉を助けるために、入れ替わり三葉が助かるようしてくれた運命の愛を描いた作品だと思いました。
普通なら3歳年齢が違う2人が、同じ時期に高2になりえるわけがないはずなのに、時を超えたのなら十分あり得ます。
お互いに記憶をなくした現在になっても、2人は運命に引き寄せられてやはり出会うというのが、運命の愛だと思います。
きっと、新海監督は時とか運命とか関係なく本当に結ばれるべき二人は必ず結ばれるということを言いたかったのではないかと勝手に解釈しています。
現在に戻った時に、やはり2人がまるで引き寄せられるように出会った時に、そうなんだろうと私は解釈しました。

「ティアマト彗星」の名前の由来を考察しました

糸守を破壊したティアマト彗星。
物語の重要なポイントの一つである彗星に、ティアマトという名前をつけたことには深い意味があると推察できます。

「ティアマト」というのはメソポタミア神話で「原初の創造における混沌」と「女性」の象徴でもある「原初の海の女神」です。
神話上では、「地底の淡水の神アプスー」との間に若い神々を生み出したとあります。

アプスーは自分の子供たちである神々があまりに騒々しいと、殺害を企てますが逆に策謀にかけられ命を落としたとされます。
ティアマトもその後、子供たちに戦いを挑み敗北したというエピソードです。

ここで、君の名は。の内容に戻りますが、彗星という圧倒的な破壊力の化身は人類にとって神の如く抗えない現象と言えると考えます。
ティアマトは一部解釈においてウミヘビ、あるいは竜と形容されたとされており、ウミヘビのような姿の竜だとすれば、中国で描かれるような長い体を持つ「龍」であるという解釈もできるでしょう。

立花瀧、宮水三葉。それぞれに「瀧」「水」という水を表す単語が含まれています。
「海と龍」のティアマト、淡「水」のアスプー。命を落とすアスプーと残されたティアマトははるか過去、「前前前世」からアスプーを助けたかったのかもしれません。
歌詞の「遥か昔から知る その声に 生まれてはじめて 何を言えばいい?」という一部から、昔に二人でいた状態から離れ、生まれ変わってまた出会えた、という表現にも思えます。

作中で重要な場面を含めて何度となく二人が入れ替わっていますが、ティアマトが女神、アスプーが男神であるという性別があべこべな点も、入れ替わりに込められた重要な意味の1つであるかもしれません。

神話のティアマトは死後、体を二つに引き裂かれて半身が天に、もう半身が地になりました。
その際に胸は山になり、そのそばに泉が作られましたが、瀧と三葉の時間が交わった御神体は山の上にあり、瀧が訪れた時には雨が降り泉のように溜まった水がありました。
あの場所もまた、ティアマトを表す場所であるかもしれません。

立花瀧は名前に水を表す文字が入るのに対し、宮水三葉は姓に水が入ります。
そして、三葉の祖母である一葉は「少女の頃に不思議な夢を見ていた覚えがある」と、入れ替わりの経験を示唆しています。
つまり、宮水は瀧と違い、家系としてティアマトと関連が考えられるでしょう。
一葉が少女であった頃にはティアマト彗星が落ちてくることはありませんでしたが、彗星が落ちる時期以外にも入れ替わりがあったという可能性があるということで、もしかすると宮水の家系に在るアスプーは三葉個人ではなく代々の巫女役に移り存在してきたのかもしれませんし、ティアマトは家系ではなく名に自身の関連がある誰かと共に在り、宮水を前世の前世のずっと前世から探し続けていたのでしょう。

皮肉な話ですが糸守を襲った彗星も、ティアマトの来訪を告げる出来事だった、という解釈もできなくはありません。
三葉を、糸守の全員を救いたいという瀧の強い願いがなければ二人は出会うことができませんでした。

ティアマトには、アスプーと結ばれ平和と秩序を生み出していくエピソードと、混沌の恐ろしさの化身である争いのエピソードがあります。
出会い、惨事、どちらもティアマトを表すには必要な要素であり、死に別れた二人が再会するという神話のあとのエピソードとしての要素も持つのが、君の名は。なのかもしれません。

「君の名は。」の注目度と映画の魅力の考察

私は映画をかなり多く見たので人生経験に繋がったと思います。映画「君の名は。」はヒットしていたので興味を持った部類です。この映画は様々なテーマがあって非常に興味深い内容だったと思います。

私は過去にアニメ映画を見たことがあったので、それと「君の名は。」を比較したと思います。例えばSF系のアニメ映画やロボットなどが登場する作品などです。しかし「君の名は。」を見た時はよりモダンで今風の雰囲気があると思いました。
例えばこの映画は最新のグラフィックを用いて作られているので、視覚的にも感情に訴える部分があると思いました。私が面白いと思ったのが田舎町と都会での表現の違いです。

また「君の名は。」は登場人物が魅力的でヒットに貢献していると思います。そして入れ替わり要素とハレー彗星の衝突というSF的部分を入れて、現代の若者にも分かりやすくドラマ性の高い内容になっていると感じました。
特に私は入れ替わりを経験した立花瀧と宮水三葉が、次第に恋愛感情に芽生える部分が良いと思いました。主人公の瀧は先輩である奥寺ミキが好きでしたが、入れ替わり体験を経て三葉に思い入れをするようになって面白かったです。

また最終付近では瀧と三葉が再会できないのではないかと感じさせる展開でした。しかしラストシーンで二人が出会って映画タイトルの言葉が出てきて、私は非常に安心できたと思います。斬新な展開でも上手く恋愛要素をまとめ上げたのがヒットに繋がった気がします。

入れ替わる体、入れ替わらない心。

個人的に本作はアニメ作品史上で最も感銘を受けた作品です。テーマや内容としては「体が入れ替わる高校生」といったどこかサブカルチャー要素を含む単調な物語になりうるものです。私も映画を視聴する前はその類の認識を持ったユーザーでした。しかし、友人の声や口コミ等を聞くと、その限りではないとのことで半信半疑で映画館へ向かいました。映画冒頭からRADWIMPSの軽快な音楽から体の入れ替わりがあり、視聴者を世界観に引き込みます。その裏で感心させられたのはグラフィックの鮮明さと背景や情景の完全なるコピーです。まるで本当にそこにいるかのような描写によって没入感を生んでいる点はこの映画の最大の魅力なのではないかと思います。

ストーリーが進む中で、2人のすれ違いやその背景を知っていくことで切なさや虚しさを描いていく反面、スマホやSNSなど繋がりが多用になる一方で希薄になっている現代社会の悲しさを問いているような感覚に陥りました。
ストーリー終盤の伏線の回収や社会人としての生活を描写するシーンでは様々な感情をアニメという「線」で表現する部分に感情移入しました。最終的にどこかで会ったような感覚に裏付けらる2人の運命を感じることができ、見終わったあと悲しさと清々しさの2つが共存する感慨深い映画でした。

感慨深いストーリー展開!感じとれるメッセージとは

奇想天外なストーリーは、見れば見るほどに楽しいと思えます。年頃の男女が入れ替わることも、なんとも面白いポイントではないでしょうか。主人公は三葉と瀧です。じっくりと作品を見ないと分かりにくいかもしれませんが、実際には3歳の年齢差があるのも興味深いといえるでしょう。この作品を通して新海監督が描きたかったのは、時代をこえてもなお愛される普遍的なテーマです。高校生という多感な時期というのもなんとも考えさせられます。

最初の入れ替わりが発生したのが9月2日ですが、翌日の3日に三葉は家族から自身の言動に違和感が見られたという指摘を受けることになります。作品のアクセントとなるのが、10月に訪れるティアマト彗星と呼ばれる彗星です。なんと1000年に1度しか接近する機会がないというだけに、感慨深さもひとしおです。このような運命的ともいえるような設定やシチュエーションにもひきこまれていくことになります。

三葉同様に瀧にも色々なハプニングが巻き起こります。入れ替わったことで憧れの東京生活ができるようになります。友達とのカフェでの談笑やアルバイトの経験など、充実した青春生活を過ごすことができました。そこで、日記を書くことになり、その日記が結果的に二人のコミュニケーションツールになっていきます。「二人の身体が入れ替わる」という非現実的なストーリーの中にも、何かメッセージ性を感じとることができるのではないでしょうか。

クロスロードと君の名を繋げる電車の中の吊り広告

クロスロードという新海誠監督が制作した通信教育Z会のCMがあります。
2014年に制作されたこのCMのキャラクターデザインは田中将賀で、君の名はのキャラクターデザインと同じ方が担当されています。出会ったこともない赤の他人の離れた土地、離島に暮らす少女と東京に住む少年が受験という同じ目標に向かって、未来に向かって奮闘しているという内容になっています。

このまま2人は未来のいつかどこかで出会うのではないかという想像をふくらませる120秒間のCMになっています。新海誠監督はこのCMを制作して、手応えを感じ、このCMの物語を映画として膨らませることはできないのではないかと考えたといわれています。たった1本の別作品のCMから、一本の映画が完成される。これは新海誠監督の作品が他の作品に影響をされ、繋がっていることをよく表しています。

そして、その繋がりが君の名は。の本編の中の電車内のシーンに登場します。電車内の吊り広告にZ会の広告があります。電車は人を駅から駅へと運ぶ乗り物です。新海誠作品の中では電車はよく登場しますが、この電車は、クロスロードと君の名はを繋ぎ、少年と少女を繋ぐ乗り物として登場しています。

宮水一葉、二葉、三葉、四葉。彼女等の名前に込められた意味

ヒロインである宮水三葉の家系の女性は、作中に登場する限り「葉」の名を含んでいます。
三葉から見て、祖母の一葉、母の二葉、自分は三葉、妹は四葉です。

三葉、その妹の四葉。
三つ葉や四つ葉という単語で馴染み深いものといえば「クローバー」です。

クローバーは和名をシロツメクサと言い、この二つが同じものだと知る人は意外に少ないのでは無いでしょうか。
そして、クローバーには多くの花言葉があります。

シロツメクサの花言葉は
「私を思い出して」
まさに、君の名は。の物語の全てと言っても良いものです。

さらに、クローバーには葉の枚数ごとに異なる花言葉を持ちます。

一つ葉のクローバーの花言葉は「始まり」と「初恋」
二つ葉のクローバーの花言葉は「調和」と「出会い」
三つ葉のクローバーの花言葉は「私を思い出して」と「約束」
四つ葉のクローバーの花言葉は「幸運」

これらは作中の立場に違和感なく当てはめることができました。

一葉は少女の頃に不思議な夢を見ていたと発言しています。
1200年前にも彗星は糸守町である場所に落ちていますが、少なくとも今の時代で入れ替わりの「始まり」は、一葉からと考えられます。
しかし、彼女の夫の話が出てこないのは、入れ替わり相手と会うことはできなかったのかもしれません。そうで無いなら、夫の話を出し、彼もそのような夢を見たらしい、という一言が添えられてもいいと思います。
三葉の父である宮水としきが、妄言は宮水の血筋か、と発言しているのは、もしかするとこの話を聞いたことがあるのかもしれません。

二葉はとしきと「出会い」、三葉と四葉を出産しました。
彼女が命を落とした後、としきと一葉は仲違いし家を出てしまいます。
「調和」が無くなってしまったのです。

三葉と瀧の入れ替わりは時間を超えたものであり、瀧が三葉の存在を認識したのはすでに三葉たちは命を落としていました。その後の展開で、三葉が残した瀧のスマホに残る記録、そして瀧の記憶から三葉の名前も消えてしまいます。
三葉が東京へ瀧に逢いに行った時には、瀧はまだ三葉のことを知らなかったのですが、自分たちの入れ替わりが時間を超えていることを知らない三葉にはその態度が、忘れられてしまった、と感じるかもしれません。
瀧へ組紐を渡した時には「私を思い出して」という強い願いを込めたと思うのです。

最後に四葉ですが、宮水の不思議な夢である入れ替わりが起こる理由が糸守町に彗星が落ちる事だとすれば、四葉は入れ替わりを経験せずに今回の騒動が収束します。
三葉は生きるために、そして糸守町を助けるためにクリアした困難は多大なものでした。物語の中で瀧と出会い、時間はかかりましたが再会することができました。そのため三葉が不幸というわけではありませんが、困難に見舞われた三葉や、入れ替わり相手と結ばれなかったかもしれない一葉。祖母、夫、そしてまだ幼い娘たちを残して亡くなった二葉と比べたなら、四葉は「幸運」と言えるでしょう。

一葉、二葉、三葉、四葉。
あえてこのような特徴的な宮水の女性たちの名前には意味があると考えます。
その意味を、日本のクローバーであるシロツメクサの花言葉から考察しました。

さらに、シロツメクサの白い部分である「花」は瀧の姓に含まれていることにお気づきでしょうか。
瀧のフルネームは、立花瀧。花の文字があります。

三葉もまた、タソガレ時の後に瀧のことを忘れてしまいました。

ラストシーンで二人が再会する時、二人とも何かを強く感じてはいるものの、やはり直前まで、何かを探している、と、何を忘れているのかもはっきりしない状態でした。
二人の最後の台詞は「君の名前は」

君の名は。のタイトルは、君の名は?ではなく君の名は。と、クエスチョンではなく句点が使用されています。さらに、英語表記ではYour name.であり、疑問形ではありません。
最後の台詞は、忘れたままの名前を尋ねるのではなく、思い出した君の名前を呼んだと考えられます。

「私を思い出して」から「君の名は。」
この物語の終わりを示す、全てが集約された、最高のラストシーンでした。

作中歌から読み取れる、君の名は。に込められた意味。

君の名は。では、前前前世以外にも複数の作中歌が存在します。
夢灯籠、前前前世、スパークル、なんでもないやです。

冒頭シーンで流れるのは、夢灯籠です。

「5次元にからかわれて それでも君をみるよ
また「はじめまして」の合図を 決めよう
君の名を 今追いかけるよ」

5次元という聞き慣れないワードが含まれています。
現在までにはっきりと定義されている次元は3次元で、「点」「線」「奥行き」です。
君の名は。では、遠い土地という「空間」と実際の「時間」を超えた入れ替わりが起こり、物語が動き出します。
この「点」「線」「奥行き」「空間」「時間」が君の名は。における5次元であるかもしれません。

最も有名である前前前世には、いくつか種類があり映画版に特徴的な歌詞があります。

「私たち超えれるかな
この先の未来 数えきれぬ困難を

言ったろう2人なら
笑って返り討ちに きっとできるさ」

この歌詞は、君の名は。公式ビジュアルガイドブックにて、新海誠監督が「その歌詞を聴かせるために、劇中のセリフを削ったりもして。」と語っています。それほど重要な歌詞なのです。
これは作中でも、そして2人が再会するラストシーン以降でも当てはまる普遍的な歌詞であり、2人はこれからも力を合わせて困難を乗り越えていく未来を連想させます。

スパークルでも、時間を越えて出会う二人を象徴する歌詞が多く登場します。
「こんな世界を二人で 一生 いや、何章でも
生き抜いていこう」
「1000年周期を 一日で息しよう」

これらの解釈ですが、瀧と三葉は生まれるよりもっともっと前に出会っていて、しかしその時に何かがあり、引き裂かれてしまったと考えます。そのため、「一生」という単語だけでなく「いや、何章でも」と続くのです。
「1000年周期」とありますが、1200年前にも糸守町に隕石が落ちた形跡があります。その時に二人が死に別れた、とも考えられるのです。

最後に、なんでもないや です。
こちらも時を超えて互いを探す二人の切なさを象徴するような歌詞が散りばめられています。
「時のかくれんぼ はぐれっこはもういやなんだ」
お互いが相手を探し出した時、瀧は三葉をまだ知らず、三葉はすでに亡くなっていました。
瀧が、お互いの時間にすれ違いがあったことを知るのはそのあとで、まさに「時のかくれんぼ はぐれっこ」です。

「僕らタイムフライヤー 君を知っていたんだ
僕が 僕の名前を 覚えるよりずっと前に」
タイムフライヤーは英語版の「Nandemonaiya(English ver.)」で、「time flyers」と表記されています。
time(時間) fly(飛ぶ)er(人)と訳すならば、やはり二人は時を超えて関係を紡いでいたと解釈できるのでは無いでしょうか。

新海誠監督とRADWINPSが、この映画のために考え抜いて紡がれた歌詞にはこの他にも様々な意味が込められているでしょう。
君の名は。の魅力は、そんな細部にも多く込められているように感じられます。

何度も泣いてしまったジャパニメーションの最高傑作です

この作品は大変思い出深いです。私ぐらいの年齢になるとアニメを観る機会もなく見ようと思いません。ですが私よりさらに中年の兄が3回も映画館に足を運んだと聞き、行ってみようと思いました。

物語冒頭では二人の身体が入れ替わってしまうというありがちな展開が続きます。それでも何気ない日常から有り得ない日々を過ごす瀧と三葉のやり取りはとても微笑ましかったです。

そのうち出会ってハッピーエンドなのだろうと思っていた矢先、三葉は既に亡くなっていたというシーンを見た時は、声が出ませんでした。まさか死んでいるなどと誰が思うでしょうか。

瀧が三葉に会うために山を登るシーンで泣きました。三葉が過去に瀧に会いに来ていたのを思い出し、彼が涙を流す描写は心がとても苦しかったです。
口噛み酒を飲み「カタワレ時」についに対面できたのに、お互いの名前を書き記すことができず、もやもや感と切なさに襲われました。

三葉、頼むから危機を回避して生き残ってくれ、そしてまた瀧と再会してくれと心から願っていました。結局三葉の健闘むなしく彗星が落ちた時は、
「やはりだめなのか」
と脱力しました。そんなオチにする必要があるのか、あまりに非情な話ではないかと落胆しました。

その後、瀧は就職活動をしていて何気ない日常を過ごしているシーンに変わりますが、鑑賞者である私は絶対に二人は再会するのだと信じていました。

そして電車と電車で擦れ違うシーンがこれまたもどかしいのです。正直韓流ドラマのような展開で、頼むからバッドエンドはやめてくださいと心の中で叫んでいました。

ラスト階段で二人がついに再会する場面、互いに「君の名は」と呼んで物語は終わります。

正直言ってこの終わりかたは、観る側の人間にとってどうとでも解釈できます。
私としては、二人は再会してこのあと恋人同士になるのだと完結させました。

色々な考察があると思いますが、それ以外に考えたくないのです。これだけ多くの偶然を重ね、ついに出会えた二人が実は幻だったとか、そういうオチは必要ないと思うのです。

深海誠監督の他の作品で男性は分かれた恋人に対して女性を思い続けるが、女性は忘れる生き物であると言うものがあります。しかし「君の名は」に関しては違うと思います。

タイムリープやパラレルワールドを盛り込んだ「純愛」映画として私の中での考察とさせていただきます。本当に素晴らしい作品です。

君の名はの映画を見て改めてレンタルビデオ店で借りて見て思うこと

なかなか会えないということが、それも、理由もわからない中で、どんなに相手のことを想像するのかということが一番この作品の中で言えることです。
改めてレンタルビデオ店でDVDを借り、見ました。

映画のスクリーンの大きな画面とかこれから見るぞ始まるぞというわくわく感はないにしても、引き込まれました。
やはり、二人がお互いが入れ替わり、とても近くに感じるのに、それを、友達にさえ言えず、でも、隕石がぶつかることで消滅してしまった島というのか、どうすればどうにかしたいという気持ちから、時間が逆戻りして、二人にしかわからない感覚の中で、大人には到底理解できない隕石がぶつかるためとという理由ではなく、友達にも援護してもらいながら、奇跡的に島民は避難していてみな命が助かりました。

今回台風19号で今も行方不明の方がいらっしゃいますが、私が済んでいる地域はしょっちゅう台風が来ます。
もし、お亡くなりになったり、行方不明になった方が、もっと早い避難ができていたらと思いますが、それは難しいことです。
君の名はを見て、あんな風に時間が逆戻りするとかありえないことだけれど、自分の大切な人が一瞬にしてなくなってしまう現実は、映画の中ではないということです。
大人たちが、温暖化についてもう少しまじめに日々どう過ごせばよいのか子供たちを含めて考える時期に来ている気がします。