「男兄弟」と聞くと、子供の頃は仲が良くても大人になるにつれて疎遠となっていく。そんな間柄を想像する人が多いのではないか?男同士特有の空気感は同じ家族というカテゴリーであっても「姉妹」とはまた違った感覚なのであろう。
年に一度会うか会わないかの関係はいったいいつを機会に成り立ってしまったのであろうか?兄や弟を持つ人間がこの疑問に対してじっくり考えたとしても、兄弟の関係性の移り変わりの切れ目を見つけることはできないだろう。
そんな兄弟が今何をしているのかも知らない人にとって、映画『間宮兄弟』はある種、衝撃的な作品である。なぜなら映画『間宮兄弟』は30歳を超える男兄弟が一つ屋根の下で2人暮らしをしている作品だからである。世の中の男兄弟にとってありえない設定の作品なのだが、映画を通して感じるのは、違和感ではなく、「羨望」である。
今回は映画『間宮兄弟』を通して理想的な男兄弟の構築方法を考えていく。
似ている部分と似ていない部分
血の繋がった兄弟は、物事の考え方や好き嫌いで似ていることがよくある。しかし場合によっては考え方が似ているが故に反発が起きてしまったり、似ていないが故に問題が生じてしまったりもする。ここでは、映画『間宮兄弟』に出てくる兄弟の似ている部分と似ていない部分をそれぞれ紹介していく。
~性格~
一般的に性格が兄弟で似ていた方が良い関係を築けると思いがちだが、『間宮兄弟』ではそうは描かれていない。
兄・明信はビール会社で働いている研究員、弟・徹信は小学校の校務員として働いている。仕事内容も全く違い、小学校の校務員はいわば小学校のなんでも屋であり、ボールの空気入れから校舎内の清掃まで様々なことを請け負う。何か問題が発生したらその問題を解決する方法を考え実行する。それが弟・徹信の仕事である。一方ビール会社の研究員は、明確な問題を解決するわけではなく、ビールの研究を通してより良い製品を開発していく仕事である。
仕事内容から見ても兄・明信と弟・徹信の性格が違う事が窺える。
兄・明信はゼロベースから自らの考えのもと仮説を立て、目標を達成していくタイプの人間で、弟・徹信は、すでにある知識の中から問題を解決していくタイプの人間である。どっちのタイプが良いとかそういう問題ではない。ポイントなのは同じ屋根の下で一緒に暮らしている兄弟ではあるが、それぞれ違った考え方を持っているというのが重要なのだ。性格が違っても円滑な関係を築いていくことができるのである。
~趣味~
性格が異なる明信と徹信であるが、共通の趣味がある。それは、映画鑑賞と野球観戦だ。映画鑑賞は、レンタルビデオ店でDVDを借りて自宅で二人揃って鑑賞するシーンがたびたびある。野球観戦に関しては、テレビ中継を見ながら共にスコアをつけたりもしている。自らがつけたスコアを見ながら試合の選評をしあうシーンが印象的である。共通の趣味があることで2人の会話も自然と増えていく。会話の内容も好きなことに関してのことであるため、そこから険悪なムードになることはまずない。
~好みの女性~
日々楽しく二人で暮らしていた明信と徹信であるが、二人に欠けているものがあるとすればそれは恋人の存在だった。これまで仲良く二人暮らしができていたのももしかしたら両者に恋人がいなかったからかもしれないが、二人は意識してそういった状況になっていたわけではなかった。なぜなら、兄・明信はいつも利用しているレンタルビデオ店で働いていた女性に恋心を抱く。なかなか思いを伝えられない明信のために弟・徹信はレンタルビデオ店で働く女性と、自分と同じ学校で働いていた女性教師を家に招き、カレーパーティーを開くことを提案する。このカレーパーティーに招かれた二人の女性がこれまた、全くの別のタイプなのだ。レンタルビデオ店の店員の女性は髪の毛を染め、若者風なファッションに身を包んだ女性で、教師の女性は見た目が地味で幸の薄い雰囲気を醸し出している女性なのだ。
女性同士の会話を見てみてもレンタルビデオ店の女性の方が一方的に話をし、女性教師の方は聞き役に徹しているという印象だ。
どちらかというと話の主導権を握る弟・徹信と聞き役に徹する兄・明信の関係もこの2人の女性と重なる部分がある。
無言の会話
仲の良い兄弟となってくると1~10まで全て話さなくても分かり合えることがある。それは、相手の立場に立って物事を考える事ができるといった大人びたスキルではなく、自然な流れかつ、無意識のうちにできることなのだ。映画『間宮兄弟』でもこんなシーンがある。いつものように兄弟揃って行きつけのレンタルビデオ店に行ったシーンで、弟・徹信が選んだ作品がたまたま兄・明信も観たかった作品だったのだ。兄弟はお互いの心情を理解し、歓喜するのだが、まさにこの出来事は無言の会話によって成立した事象である。
よく、「二人っきりでも無言でいられるようになったら本当に仲の良い関係」と言われることがある。しかしこの言葉の真意は「話さなくても相手が何を考えているのかが分かる関係」ということだ。逆に気まずい関係というのは、相手が何を考えているのかがわからず、もし自分に対して、嫌なイメージをもたれていたらどうしようとお互いが感じてしまうことが原因にある。「二人っきりでも無言でいられるようになったら本当に仲の良い関係」というのは、お互いがマイペースで他人のことなど気にしない性格の持ち主であることではなく、十分理解しあった両者でしか実現できない形なのである。
子供の頃のままで
成長していくに伴って体は当然、大人の体へと変わっていく。もちろん、体だけでなく物事に対する考え方も子供の頃と比べると変わってはくるだろう。しかし、明信と徹信の二人の会話が作り出す空気感は子供の頃と変わらない。
二人が盛り上がる話題はいつまで経っても映画の話題や、野球に関することそして、珍しい世界のテーブルゲームに関することだった。
話すシチュエーションもいつも同じだった。夜、同じ部屋の中にひかれた二つの布団にそれぞれ入ってその日一日のハイライトを話す。こんなことがあった、あんなことがあった。お互いの出来事を楽しそうに話す明信と徹信は見た目が大人というだけで、中身は子供そのものである。
楽しかったことに対する言葉での共有は、いくつになっても変わらない形として存在し続けているのであろう。人間誰しもが大人へとなり、子供の頃に感動していたことも当たり前に見えてきてしまう。兄弟間で大人対大人のやりとりだけを繰り返してしまうと、血のつながりを感じることがなくなってきてしまう。
そうれはもう、その日に初めて会ったばかりの他人との会話と何ら変わらなくなってしまう。かと言って、お互いの精神年齢を下げる必要はない。感動する場面や心躍る出来事の際にいかに無邪気になれるかがポイントなのだ。無邪気さは人間が本来持っている精神状態で、加工することができない領域だ。すなわち、小学生時代の無邪気さと、30代の無邪気さは一緒ということになる。考えてみてほしい。「あの人、無邪気にカッコ付けてる」や「落ち着いた無邪気さだな」と感じる人に出会ったことはあるだろうか?「無邪気」という言葉は前にも後ろにも言葉はつくことはないのである。
まとめ
今回は、映画『間宮兄弟』より、理想的な男兄弟を構築する方法を考えてきた。なんと言っても、明信と徹信は子供時代から自然と大人になっていった人間だ。彼らは物事を深くまで考えることはしない。物事に対し、俯瞰的に全体像をボヤッと見ているといった感じだ。小学校を卒業したから中学校へと進学し、大人になったから仕事をし、といったように自分たちの成長に対して逆らうことなく自然な流れに身を任せてきた。だからこそ兄弟二人の関係性はいつまでも変わることなく誰しもが通過する「あの時のまま」なのであろう。